ホモソーシャルの崩壊
突然なのだけど、僕には最近よく電話をする男友達がいる。音楽や街や恋愛や色々な話をする。彼とは高校時代からの仲で、卒業までは学校ではほぼ毎日隣にいた。彼はいま東京、僕はフランスに居る。そんな彼と最近話したのが「なんか今の俺らの関係気持ち悪くね?」ということだった。
彼と出会ったのは15歳の終わりで、それから3年間コミュニケーションが頻繁あった。高校時代には同じ学校に通っていた上、同じ寮に住んでいたので、ある意味家族よりも距離が近い存在だった。距離が近いというのは一番良いところも一番悪いところも見えるということで、あの頃の僕らはしっかり、どっぷりホモソーシャル内にいたと思う。ここでいうホモソーシャルとは女性の友人関係(ケア関係)があまり存在しない男性の価値観の中で成り立つ社会関係である。
この言語化が難しい現象を詳しく説明してくれいるポッドキャストがあるので貼っておく。『のらじお』さんおすすめです。
聴く時間がない人のために説明すると、一概に言い切ることはできないのだけど、男性社会では女性社会とは違い、共通の目的がある男性集団(スポーツやバンドなど)である以外では「ケア関係」はないと言っていい。男性は一定の年齢を超えると一対一の男同士の関係というのはホモフォビア的な制裁を受けてしまうので、あまり成立しない。このポッドキャストでは工藤新一と少年探偵団の例が出される。「何も目的がないのになぜ俺らはくっついているんだ?」となる。説明しようがない気持ち悪さがある。元々、友情とは対等性であり、そこにケアもクソもないというのが男性の感覚。なぜならケアされるというのは弱者男性(女性にケアしてもらえない、競争で負けている)の象徴だからである。女性のコミュニケーションように耳を傾ける、共感するというのは多くの男性にとって弱さの象徴なのだ。これは伝統的な有害な男性性でもあり、男が言う「男の苦しさ」というやつだ。またこの状態にズブズブで年を重ねたコミュニケーション能力が欠落した、序列に入れなかった男性が部下に怒り散らかす上司や、キャバクラや風俗に行くこと、パパ活などをやめられなくなる老害になるのである。結局ちゃんと説明できなかったので本家聴いてください笑。
話を戻すと、彼と僕は高校時代にバリバリのホモソーシャルの中にいた。わかりやすいライバル関係のようなもので、お互いをケアするなんてことはほぼなかったように思う。もし2人っきりで居ても弱さを見せることはなかったはず。ましてや男子が40人集まった寮に住んでいたし。お互いに少し似たような夢や情熱の形を持ち、また僕ら以外にも他に2人グループ内にいたので、そのバランスが関係が僕らの関係を支えていたように思う。
しかし僕らは高校を卒業し、4人でのつるむ時間はほぼなくなった。そこに残ったのは3年間でくっつき過ぎた個々人同士の関係である。しかも距離が遠くなったことによって「お互いへの美化」が生まれ、拮抗的な関係にヒビが入った。僕らが感じていたあの気持ち悪さはホモフォビア的な制裁を受けてしまうような男性像に自分達がなりつつあることに対する嫌悪の感情だったのだと解釈。しかし、これはまた僕ら2人がメインストリーム的な階級社会(大学生、サラリーマン)に属していないからでもあるはずだ。僕らが今アウトカーストの世界(世にいう普通の進路の外)にいるからこそ、僕らの中の女性性(男性性の対照)が芽を出し始めていて、これが今までの男性性に反発している。要するに今の僕らは社会の中で言われる女々しい男なのかもしれない。『ドラゴンボール』の孫悟空の対照の立場かつ、また『秒速5センチメートル』の遠野貴樹みたいな。いやでもよく考えてみると自分にはずっと女性性もかなりの割合であったような気もする。これは環境のせい?個人差?時代性?分からなくなってきた。どうする?殴り合いするか。リバティーンズみたいになろうぜ。