レッテルを貼っている
必死に掴んで自慢げに貼りつけていたレッテルは
いつのまにか剥がれていた。
小学生 中学生 高校生 皆で手を繋いで歩くように なんの疑いもなく辿ってきた。 高校進学するにあたり 少しばかりの 違い を感じたけれど いざ為ってみれば 当たり前のように 同じ だった。
例えば
それがいかに素晴しかろうと
人に、尊ばれるものであろうと
人間一個人の価値というのは
絶対的にそれだけで測るべきではないし、
勘違いも甚だしい
と思うことがよくあって
世界が狭いような気が
してならなかった。単に、
心地が悪かった。
おそらく私はとても捻くれている
のだという事にしていた。
そういう事にして
、口は紡いだ。
けれども同じ気持ちでいる人が実は近くに、確かに存在した。最後の最後にそれを知った時、流石に、
心臓がこそばゆかった。
こそばゆいのが、
心地よかった。
つまるところ
同級生が働き始めるということは
もう子供ではいられないという実感。
数年前
、私よりも背が低くて訳もわからず毎日
やんちゃしてたようなやつらが
今は私を見下ろしているし
、
しまいには、「来月から働く」だとか、言ってる。
それはもう私にとって
大人になる合図のような気がしてならないし
どんな素敵な映画の一場面より
ガツンとキた。たぶんこの先もずっと忘れられない。
あの、箱庭のような場所で、あたかも同じ生き物であるかのように過ごしてきたわたしたちも、これからは、多種多様に異なるレッテルをぺたぺた貼りながら皆ソレゾレ生きていくんだね、って。
それがどんなに地味で、くすんだ色だとしても、
シワだらけでも、剥がれかけていても。それでもみんなかっこいいよ、あなたたちはずっと、大丈夫。
けれども
むやみに剥がしてしまったわたしの綺麗なレッテルの
その、ベタベタとしたノリの跡までは、言わずもがな。
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【 postscript 】
高校を卒業したあとの春休みの話。
高校生でもなく専門生でもない「何者でも無い期間」が
面白かったのだった気がします。
高校に対して感じていた違和感を、手遅れでも
卒業後にようやく共有できたこと。
小・中学校の同級生が高校を卒業して、
社会人になるということに漠然と
焦りを感じたこと。
ふらふらとしていました。
(少しだけ書き直しました。)
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