【書籍刊行記念】なぜネパール人のインドカレー屋だらけなのか❓「インネパ」の謎を追う🇮🇳🇳🇵前篇「インネパ」の成り立ち
こんばんナマステ 💛Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️
昨夜、 #Clubhouse 『 #インドの衝撃 ( #インド大学 )』にて「 #インネパ 」についての話を聴いていただけた方はありがとうございました‼️
早速noteにも落としていきたいと思うのだけど、今回は前後篇に分けていくことにする。
日本中のインド料理店の大半が「インド・ネパール料理」という看板を掲げ、それがネパール人が運営している「インネパ」であることは少しずつ知られるようになってきたけど、
時折その謎を探ろうとするネット記事などは出てきてもヴィザ関係についてなど内容面では浅いものがほとんどで真相はよくわからないままだったよね。
ここにきて先月24日に「インネパ」の深層を探った書籍として『日本のインド・ネパール料理店』(以下、本書)が #阿佐ヶ谷書院 より刊行された。
著者はインド料理やネパール料理の碩学といえる有限会社 #アジアハンター 代表小林真樹氏。
南アジア食器の輸入商でありつつ、フィールドワークの意欲も高くこれまでに『日本の中のインド亜大陸食紀行』(2019年、阿佐ヶ谷書院)、
『食べ歩くインド』(2020年、旅行人)を著述してきた作家でもある。
それ以上に日本一インド料理が好きな食いしん坊なんだけどね。
めちゃ量を食べる人でもあり、大食いである自分と小林氏が座るテーブルは他の人が余りものの持ち帰りを期待してても何も残らない、なんて話もある💦
本稿は本書の記述をもとに「インネパ」が日本全土に波及した理由を探ってみることにする。
本書は500ページ近い大作だけれども、そのなかで「インネパ」の成り立ちについては435ページ以降に書かれ、それまでは北海道から沖縄まで北から順番に地域ごとの「インネパ」事情を追っている。
本書を手に取るのがある程度予備知識のある人が多いという前提のもと、知識的なところよりまずは現場の躍動感を味わってほしいというのが小林氏や編集人である阿佐ヶ谷書院島田氏の意向と思われるけど、本稿では「インネパ」について予備知識のない方でも理解しやすいよう、成り立ちにフォーカスして述べていくことにする。
なお、そっくりそのまま本文を抜き出すってことはせず、リライトした上で結構私見も混ぜてるので本書を読んだ人は首を傾げるかもしれない。その結果として、事実誤認が出た場合の責任は全部こちらにあるので誤解なきよう。
まず438ページから書かれているインドのコック事情について書いてみたい。
インドの独立後、デリーやボンベイ(現ムンバイ)といった都市部に移住する出稼ぎ労働者が増え、それに伴って安価な大衆食堂が増加する。
デリーの場合は当初近隣のウッタル=プラーデシュ州西部からコックを集めていたけれど、1980年代に入り北部のウッタラカンド州ガルワール地方やネパールからコックを集めていくことになる。
北インドにおいてコックは「身分の低い仕事」という位置づけで、貧しい地域の出身者が単純肉体労働の担い手になるという構図。高度成長期の東京でいえば東北地方からそういう労働者を集めていた事情に似ている。
それを踏まえつつ、ちょっと飛んで457ページに結構衝撃的なことが書いてある。
いわゆる「 #インド料理 」、最近では「北インド料理」と呼ばれる #ナン と #バターチキン など濃厚なカレー、それに #タンドリーチキン といったフォーマットは分離独立後常駐イギリス人顧客を失った高級ホテルが外国人観光客やインド人富裕層を喜ばせるために、ムガール帝国の宮廷料理やパンジャーブ地方の料理をもとに創造されたもの。
これはイギリスの歴史家ホブズボウムとレンジャーの共編著『 #創られた伝統 』で述べられているそのまんまな話。
この話を知れば北インドのホテルや観光客向けのレストランではいわゆる「インド料理」が出てきて、街中や家庭では全然違うものが出てくる理由もわかってくる。
ここで435ページに戻ると、1960年代終わりから70年代にかけて日本で開店したアショカ、マハラジャ、モティといったお店はそのホテル料理の世界観が引き継がれていた。
それを知ると1927年に生まれた新宿中村屋の純印度式カリー、1949年創業のナイルレストラン、1957年創業のアジャンタがいわゆる「インド料理」のフォーマットではないことも腹に落ちる。
てっきり中村屋がベンガル、ナイルやアジャンタが南インドだからそーなんだ、くらいにしか思ってなかったけど、「インド料理」化してないインド料理なんだね。
今思えばこの時代にパンジャーブ州やウッタル=プラーデシュ州のレストランが日本にできてれば、日本人の北インド料理のイメージも変わったんじゃないかと思う。
ロンドンで発展した「インド料理」が日本に来たという意見もある。この記事にも小林氏が出てるけどね。
そして日本でも小規模なインド料理店が増えてくるにつれ、インドの状況に合わせて安く雇えるガルワールやネパールのコックが増えていった。(445ページ~)
インドのレストランはカースト的序列の分業制が取られているけど、日本の小規模なレストランでは調理だけでなく皿洗いや床掃除、ホール業務までこなさなければならず、ホテル出身のインド人コックには耐え難いんだって。
日本ではどんな大料理人もまずは洗い場からなんだけどね。
何年も見習いをさせる日本の料理人の封建的な社会がいいとはまったく思わないし、サイゼリヤのように飲食店で発生する料理以外の周辺業務はどんどん効率化されなきゃダメだと思うけど、
かといって皿洗いをやりたくないとか言ってるインドのコックは個人的には好かないな。
451ページからの記述。草創期のインド料理店オーナー達はコックの確保に苦労し、最初は現地までスカウトしに出掛けていたのが徐々に既存のコックの地縁に頼るようになり、そしてブローカーが生まれていく。このような仕組みのなかで特にネパールのバグルン出身者が増えていく。
1980年代はオーヴァー=ステイが多かったけれど、徐々にコック=ヴィザを取得しての来日が増えてくる。
特に1996年より10年に及ぶマオイスト(ネパール共産党毛沢東主義派)による内乱が拍車をかけ、ブローカーを頼って来日する者が後を絶たなかった。
また内戦を終えた1997年には外貨獲得のため政府が出稼ぎを奨励するようにもなる。
458ページからの記述でいよいよ「インネパ」の誕生が描かれる。
コックとして来日したネパール人のなかには、日本人と結婚して永住権を得るなどしてインド料理店のオーナーになる者も出てくる。
また、1980年代後半に急増したパキスタン人経営の店舗が90年代に有償譲渡されネパール人のオーナーが増えていく。
彼らはその経歴から言ってもネパール料理に詳しいわけではなく、先行するインド料理店のホテル系料理のフォーマットをコピーした。
コピーがコピーを生むシミュレーションから、オリジナルなきコピーへ。チーズやあんこやゴマのナンはボードリヤールの指摘するシミュラークルそのもの。
創造されたホテルの「インド料理」がモダンなら、「インネパ」はポストモダンということか。
メニューや看板、内装などが専門業者によってテンプレート化された無個性な「インネパ」が粗製乱造されて、過当競争の結果かつての高級感からかけ離れた安かろう悪かろう料理の象徴みたいになってしまったんだと。
本書とちょっと離れるけど、 #タンドール の普及も「インネパ」の大きな要素だよね。それがなきゃナンは焼けないから。
それってもちろんブローカーもいるんだけど、国内で唯一タンドールを製造する神田川石材商工がインド人は誰でもタンドールでナンを焼くと思い込んで製造、実際にそうではないと後からわかってもめげずに売り込み続け「インネパ」や南インド料理店でも波及するようになったんだってさ。
とりあえず今日はこんなところで。故筑紫哲也風。
明日は「インネパ」の変容について書いてくよ。
それじゃあバイバイナマステ💛暑寒煮切でしたっ✨
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