”土台”から考える宗教と哲学  [ YouTube 「テレワーク対談 森岡正博先生×瓜生崇先生」学びの振り返り ]

【哲学と宗教】
哲学:物事の根本や思考の枠組みなどを前提なく問い、究極的・全体的な真理を探究する態度。それを体系化した理論。
宗教:人間を超える超越的な存在と関わって生きる態度(信仰)。またそのような信仰を共有する人々の集まり。

 
宗教者は思考が停止している状態なのだろうか。
“全てを疑うことはできない。
何かを疑うという行為は、その前提として信じているものの存在が土台していないと成り立たない。”

対談中のこの言葉がとても印象的だった。
宗教を信仰している人にとっての「土台」はとても明確だ。
土台がしっかりしているからこそ、そこから上へ、外へ、広がることができるのかもしれないと思ってしまった。
 
森岡先生の発言にも通うものがあったが、マザーテレサ等、偉人の業績には本当に感動させられる。その生き様はとても素敵で憧れの思いを抱く。
ただ、その反面「他者を救う」というこういに馴染めない自分がどうしてもいるのである。
 
私は他人の為に生きたいと思う。
他人がいるからこそ自分が存在できている、というのもわかる。
他者を感動させること、他者の為にすることが「仕事」だ、というのもわかる。
頭ではよくよくわかっているのだけれど、気を抜くといつも私は“自分”ばかり見ている。
自分のことでていっぱいなのである。

そんな自分の在り方に嫌気を抱いて苦しかったときもあった。
ただそういう自分を受け入れたうえで考えた。

まずは己の器を満たすこと。
そうすればいずれ満たされ外に流れていくだろう。
周りを潤すことができるだろう。

そして、意図せず広がる波紋もあるということ。
対談でもあったが、本人が意図せずとも、本人にとって「他者を救うこと」が目的でなくとも、傍から見ると強い他者への「救い」になっているケースはとても多く存在しているのではないだろうか。

それは恐ろしさと希望との両義的なものだ。
すれ違った他者一人ひとりが私から受け取ったもの、その全てを私が知ることは不可能だ。
前向きなパワー、安らぎ、心地よさ、勇気、そんなものがどうか届きますようにと願うことしかできないけれど。

例え意識が「自分」にしか向いていなかったとしても、そこに全力さ、一生懸命さ、ひたむきさ、凛々しさ、そんなものがあったとしたら、きっと周りも潤すそんな波紋を広げることができるのではないだろうか。
 
確かな土台の上、力強く広がっていくのが宗教なのかもしれない。
対して、己の足元にある土台を疑っていくことが哲学なのかもしれない。

 
時代を超えて多くの人が踏ん張ってもびくともしない「土台」を確立させたそれぞれの宗教は素直にすごいことだと思ってしまう。そこから受け取る材料はきっとたくさんあるのではないだろうか。
 

【でも、それがいい】
・理系的な文や言葉はどんどん古くなって、新たな発見がなされ、どんどん進んでいる。
対して哲学は、遥か昔の言葉や文もとてもリアリティがあり、いまだに議論が続いている。
昔からほとんど進まない。
でも、それがいい。
 
私もそう思う。それがいいんだ。
 

【カルト宗教は恐ろしいのか】
・「カルト宗教」というと凄く怪しくて怖いものだと無条件に受け取ってしまうが、それは他の宗教とほとんど何も変わらないし、同じような構造はとても身近に存在しているということ。
今は広く親しまれているキリスト教も強く否定され蔑まれ迫害を受けていた時代が存在している。一体何が違うのだろうか。

無条件に信じて突き進むことは、目隠しに陥る危険をはらんでいるが、同時にとても「楽」である。
何も考えなくていい。
大好きな人に何かをしてあげて喜ばれると嬉しい。
自分の価値が他者に保証されるという安心感。
ただこのような構造は友人関係にも恋人関係にも親子関係にも生まれる可能性がる。
一概に「カルト宗教」を遠ざけてはいけない。身近なこととして、自分事として考えていけたら。
 
 

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