「偏見」について考えた日

偏見:公正を欠く見解

大好きな恋人と将来のことをウキウキお話していたときのこと。
彼がとても自然に、私にとってはあまりにひどい偏見をもった考えを口にした。
この多様性の時代になんてことを・・・と驚いてしまうような。

自分の考えが絶対に正しいだなんて決して思っていないが、
明らかに遅れをとっている思考を持っている人をいざ目の前にすると、唖然としてしまう自分がいた。

「時代錯誤かもしれないけど」その一言を付けたらどんな発言も許されるのだろうか。
それを私以外の人に公にしないとしても、
彼のその眼差しは温かいものではないということ。
彼の胸の中には確かにわだかまりがあるということ。

それは間違っている。時代錯誤だ。偏見だ。
と頭ごなしに否定してしまうのはある意味簡単なことなのかもしれない。

でもそう否定したところで、秘めたる思考としてそれはその人の中に根付き続けるのだ。
それは解決になるのか。
目に見える表上が美しく整っていさえすれば良いのか。
それで済むのか。

法律や公なものが正しく整うことはとても大切なことであるけど、
公に表明される範囲外にある1人1人の胸の内をすべて整えることはあまりにも難しい。

偏見をもっている人、自分と明らかな異なる考えを持つ人を、いざ目の前にすると困ってしまう。
それが、身近で大切な人だと、より言葉を失ってしまう。

思考の自由。
でも彼の思考が誰かを傷つける可能性もあるということ。
そこに私は何か介入することはできるのだろうか。
私の言葉で何かを変えることはできるのか。

考える。

・すぐに言葉にすることができなくても、自分の中で考えをまとめる時間を作る。
もやもやしたままにせず、自分に嘘を残さないこと。
自分に嘘があるのだとしたら決して「肯定」の態度をとらないこと。
些末なものでもいいから「否定」の態度をとる。もしくは「否定も肯定もしない」こと。

どうしても頑固な部分、綺麗ごとのように見られてしまう部分、意地悪な部分、わかっていても腑に落ちない偏見をもった考え、どんなものであっても必ず自分にとっては「嘘」のないように。

・自分の思考を豊かにする努力を決して止めないこと。
新聞を読む。わからないこと、興味のあることはどんどん深めていく。
本を読む。
周囲の発言に安易に引っ張られない強さを常に持っておくこと。
柔軟さと弱さは違うことを心得る。
自分の「今」の思考に自信を少しでも持てるようにしておくこと。
そのために日々アップデートしていく。

ただ、ズレに出会ったとき、一概に相手がおかしいと間違っていると決めつけるようなことはしないこと。

・知識を持つ人は、その知識を正しく生かす責任があるということを忘れないこと。
その知識の裏付けは強固な者である必要があるから、その努力は絶え間なく行うという前提で、「持つ」人は「生かす」責任があるということ。私の番で止めないこと。

私にとっては例えばこのnoteでの発信。
日常で出会う人との些細な会話での言葉の紡ぎ方。立ちまわり方。
その小さな積み重ねが、誰かの勇気になったり、誰かの心に小さな波をたてることに繋がったりするのではないかと思う。

恋人の偏った思考との出会いから私はどんなことができるだろう。
彼の思考をすっかり変えてしまうことはできないけど、それを岐路にして「私」は変わることができるんだ。

そして、そもそも「偏見」とはいったい何なのだろう。そんな今まで持っていなかった疑問も生まれる。そうやって学びが広がっていく。

思考の癖、今までの経験から育まれた者であるとしたら、その「偏見」の部分だけをつまみ上げて非難するのは愚かだ。
それに至っている理由は何なのか。何が彼の思考をそう頑なにしてしまっているのか探る必要があると思う。

思考を塗り替えていくのはその本人にしかできないと思うから。

私は人付き合いはあまり得意ではなく、他者との会話が極端に少ないかもしれないとハッとした。
会話は自分の視野をぐっと広げるものになると改めて気づかされた。
「思考のズレ」に出会うと、それを補いたいと強く思う。
どこからこのズレが生じているのか、辿っていくと根本にどんな岐路があるのか、自分の知識不足が原因なのか、歩み寄れる部分はないのか、必要以上に頑なになってしまっている部分はないのか。
補うための働きかけが、私の思考の広がりを促してくれる。

ぴったり重なるのはとても嬉しい。幸福感に満たされる。
でもズレを見つけ、補う努力をするということも、また一つの幸福なのかもしれない。

本心での深い会話をしたい。
そんな関係を一人でも多く築いていけたら。

ここからまた私の学びが始まる。

あからさまな軽蔑的偏見に代わって、現代的レイシズム・回避的レイシズム・象徴的レイシズム・といった、一見、偏見とは気づかぬような「隠微な偏見」が広がりを見せている。
人々が規範に配慮してあからさまな偏見を表出しなくなっただけなのか、偏見の内容が実3際に変化したのかは議論が分かれるところではあるが、いずれにせよ、特定の対象への否定的な認知と感情、つまり「偏見」は存在し続けている。

さまざまな差別に自覚的になり、その上で判断を下せるようになったら、それは偏見はなくなったと言えるのか。
自身の中にあるステレオタイプが消え去ることはないのか。

このステレオタイプが染みついてしまっているのは、自覚的にも無自覚的にも今まで受け取ってきた情報がそういう見方を孕んでいたからなのかもしれない。
私が仮に強い自覚と共に押さえつけるようにしてステレオタイプを払拭した言動を積み重ねることは、それを見ているこれからの未来を生きる子どもたちの新しいステレオタイプになっていく可能性も大いに有しているということ。
その責任を持っていけたらと思う。
今の自分の行動が新しいステレオタイプを培っているということ。

偏見の強さに関係なく、偏見の対象に出会うと、自分の意志とは関係なく、相手の社会的カテゴリーにあった否定的内容のステレオタイプが自動的に活性化され、思考や判断に影響を与えやすくなる。

偏見の弱い人はステレオタイプの活性化に気づくことで、それを対象に適用しないように意識的に思考をコントロールしたと考えられる。

ステレオタイプ抑制はリバウンド効果を伴い、リスクがある。

そもそもどうして偏見の弱い強いがあるのか。
強い人はそもそもそれがステレオタイプ的思考であるという自覚もなく、鑑みようという歩み寄りもない。それはどうしてなのか。

初めは世界的制裁を避けるためという外発的な動機によって行動を繰り返すうちに、個人の中に判断基準が内在化し、内発的動機が生じ、そうすることで罰のない私的な状況でも偏見の自己制御ができる。

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