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愛と幻想のギャンブル

私はギャンブルが好きだ。ギャンブルというのは好きになってしまった時点で、負けが確定している。勝てる人間は、純粋な期待値を追える人間であって、好きだからという理由で負けた自分を正当化してしまう人間は、一生勝利の女神に愛されることはないのである。お金を貢ぐアイドルオタクと同じ構造であろう。彼らより勝算はあるだろうが…

私とギャンブルの出会いは、浪人していた時期であった。勉強しない浪人生というのは、退廃の極みである。勉強しない大学生は怠惰ではあるが、社会への不満はそれほど抱いていないから、まだ可愛いものだ。浪人生などという人種は、社会に何の影響力も持たないクセに、プライドばっかり高いから厄介である。親の金で勉強させてもらっている手前、バイトするわけにもいかないので、遊ぶ金を作る手段はパチンコしかなかった。初めてエヴァを打った衝撃は今でも忘れられない。退屈な浪人期において、唯一の娯楽であったかもしれない。金を稼ぐ手段は他になかったから、毎日がひりつく戦いの連続であった。

ギャンブルはきっとリストカットに似ているのだと思う。精神的な破滅願望を満たしてくれる。ボコボコに負けた時には、ギャンブルなんてせずにまともに生きようと思えるし、勝った時には自分は神に愛されていると調子に乗るのである。金を失うことで生きていると実感し、時には戦いで勝つという感覚を味わうことができる。人間の本質的な欲望と密接に関連しているからこその依存性の高さである。人間はいくら倫理的であろうとしても、快楽には抗い難い動物である。恋愛だけが手放しに称賛され、ギャンブルや薬物が非難されるというのも不自然な話だ。恋愛も快楽を追い求める人間の欲望の発現であり、これほどまでにギャンブルや薬物を規制するのであれば、無法地帯となっている恋愛もそろそろ規制対象にすべきではないのか。

ギャンブルの話だったはずなのに、恋愛だの薬物だの出てきたから、そろそろ思考をとめて瞑想でもした方が良さそうだ。仏教では無我の獲得のため、読経や座禅を行う。現世における苦しみから抜け出すためには、行為に集中することで、自我を忘却させる必要がある。だとすれば、目的を同じくして行うギャンブルも修行と言えぬこともなかろう。ギャンブルとは、憂き世を生きる我が身の拡張された一部である金銭を賭して、勝利と敗北の歴史を紡ぐ行為である。

こうした私の惨めな自己正当化は、愚かな自傷行為を何度だって繰り返させる。退廃主義的で、幻想を夢見る自分を愛しているのだから。

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