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MISSING 愛を巡る旅

私は河川敷を散歩するのが好きだ。特に夜遅い時間に見る川は昼間見るのとは全く違った顔をしていて面白い。真っ昼間の陽の光をたくさん浴びてのんびりとした顔とは対照的に、月の光をも吸収していきそうな冷たい顔をしている。よく私が散歩する川の近くには、団地がある。駅からはそれなりに離れたエリアなので、おそらく電車をあまり使わない高齢者が多く住んでいると思われる。夜に散歩をすると部屋の明かりは大半が消えているのだが、所々明かりが灯っていて、河川敷から団地を眺めていると、人間が住んでいるのだということを感じさせられて、何だか生きている感じがする。高速道路も似た理由で好きだ。深夜に高速を走る大型トラックを見ると、顔なんて分かりゃしないのに、とても人間味を感じる。きっと自動運転の世界にはない味わい深さだろう。

村上龍の『MISSING 失われているもの』を読んだ。僕の愛する作家の最新作だ。現在進行形で失われていく現実。現実と夢の境を行き来し続ける物語である。

現実とは何か、はっきりしない。はっきりしないものには意味がない。現実には、意味がないのだ。

物語の最後は村上龍らしい三段論法で締めくくられる。失われていくものを追い求めてはいけないし、変化を恐れるのも愚かである。現実とは常に失われていくものなのだから。

私もこの物語の主人公同様、昔愛した女性を未だに忘れることは出来ないでいる。男とはそういう生き物なのだろう。銀座の高級クラブで働いていた涼子さんは、同い年とは思えないほどに洗練された美しい女性であった。そしてその名前が源氏名で、本当の名前もまた美しいことを私は知っている。さよならも言わずに私の前から姿を消したあなたのことを嫌いになれるはずがないではないか。ずるい女だと今でも思う。最後まで君は美しかったのだから。

それにしても村上龍の文章を読むと、バーに行って女性を口説きたくなる。たとえ前時代的であっても、男女の恋仲というのは美しいものである。刹那的であればあるほど美しい。現代社会は、人々の生活がSNSで覗き見できるようになった。過去の写真や投稿を簡単に遡ることができる。恋愛の持つ刹那性はすでに過去のものなのであろうか。

いますぐさあキスをしよう。あなたを知ったその日に。恋が始まる。

石橋貴明と工藤静香のデュエット曲「A.S.A.P.」のサビである。この曲の発売は1997年のバレンタインだ。昔は良かったなんて言いたくはないが、少なくともマッチングアプリで恋愛をする時代に比べれば遥かにロマンチックであろう。現実なんて意味がない。もう一度キスしたかった。

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