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「1分着手」に違和感をおぼえたら【ユタカジン】

今年もよろしくお願いします。
タスクシュート手帳術の会を今週末(1/19)に控え、今年はみなさん、どんな手帳を使われているのかなーと、いろいろ楽しみにしているKyo-koです。

さて、タスクシュート界ではおなじみの「1分着手」。
「先送り0」を目指す100日チャレンジでのルールでも、今日1日のプランのうち、1分でも着手したものは先送りにカウントしないというものがあります。

私が、初めてこのルールに触れたときに感じたのは
え、1分でいいの? それってやったことになる?」。

実はこの言葉が、私とタスクの向き合い方、そして「1分でさえ着手できない」の一因となる考え方を物語っていたんですよね。

1分に、何を求める?

「1分でやったことになるのか」という考え方。それはたぶん、私がタスクに対して、常に以下のように思っているから。

  • きっちりやらないといけない

  • キリが良い所まで終わらせたい

  • まとまった時間が必要

「1分着手」という、まず取り掛かる、1つずつでも淡々とコマを進める という現実的な作業自体ではなく、常に「なんらかの成果、収穫」を求めていて、そうでないと価値がないと思ってしまっている。

成果を求められる社会に生きているだけでなく、作業が終わったらチェックを入れる、というチェックリストに慣れきってしまった側面もあるのかもしれません。
チェックリストは、そこに書いてある作業が終わらない限り、やったことにならないですからね。


無意識の「1分で何ができる?」、まとまった成果を得られない、無意味だという声。
中途半端ではダメだ、成果を上げるには時間がいる、頑張らなきゃいけない …自分の中に、そんな決めつけがある。

出来れば想像以上のものを、相応の時間をかけて、きっちりとやりたい、またはそうすべき。
そんな思い込みに縛られ、この先の膨大な作業を無意識にイメージし、自らタスクをどんどん重く感じさせてしまう。取り掛かるのに、余計なパワーが必要になる…

もちろんそれだけではない、複雑な要因も絡んでいるんだけど。

成果=未来という実体のない物に過剰に期待したり、目が向きすぎると、途端に不安になっていきます。実現できるだろうか、大変そうだと。

まずは、成果主義を捨てて「目の前の1分」「次の一手」に意識を集中してみる。
100時間だって、すべて1分、1秒の集まりで出来ているんだから。
まず、ペンやマウスを握らないと、その先には進めないのだから。
現実に一歩踏み出した、その1分の間に、1分以上の価値に巡り合えるかもしれないのだから。

…そうは思っていても、〆切前などにはやはり、がっつりと脳が成果主義に戻ったりします。だって、実際明日までに納品しないといけないですからね。頭の中は、常に「いま」ではなく明日です(苦笑

そうなってくると今度は、それ以外のことに「1分でさえ」時間を使うことができなくなる。「そんなことしてる暇はない」と。
時間がないという意識に囚われ、1分を削られるのが怖くなり、1分間に出来ることに、過剰な期待をしてしまう。 勝手ですね。

自分が、いま使おうとしている、1分という時間を、どうとらえているか。
それが自分の現在の状態を表す、バロメーターになるかもしれません。

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1分着手が脳のやる気スイッチを押す?

余談ですが、1分着手のサブ的効能?というのでしょうか。

重い腰をあげて「よし、ちょっとだけやる!」と決めてとりかかったら、意外と長く続いたとか、気分が乗ってしまったとか、そういう経験をされた方は、割といるのではないかと思います。

脳の中に「淡蒼球」という、脳のやる気スイッチがあるそうです。何かを始めたり体を動かしたりすると、この淡蒼球が動き始め行動を続けさせようと働きかけるとか。

「1分でもいいから」と思ったのに以外にスイスイできたら、それはそれで気分がいいもの。
本当に1分で終了したとしても、気分が乗ることでその1分の価値をさらに高めてくれるかもしれません。
自分との約束を守れたという、自信にもつながりますしね。

目の前の1分を信じて、そして感じてみると、新たな発見があるかもしれません。


<当回はnoteマガジン「ユタカジン」への寄稿です>

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