初任者研修のダブルバインド。

アメブロより記事を転載。
長い記事で全部読むのがしんどい場合は、以下の文章(真ん中ぐらい)より下だけでも読んでいただきたい。

では、なぜこうなってしまうのか。
最後に、初任研がダブルバインド(板挟み)を生み出してしまう構造について考えてみたい。

この箇所では、立場によって異なる教師の意味世界の地平について分析しているのだけれども、今読んでも当時書いたことはその通りだと思う。

今回の記事は、前回に引き続き教員の1年次研修(初任者研修 ※以下、初任研と記載します。)について書きます。
ですが、今回の話は、初任研の問題というよりは、学校一般の問題です。学校一般の問題が、初任研のうちに端的に表れているととらえるのが適切であるように思います。
一言で言えば、経験の浅い若手教員が自分の持ち味や良心を奪われてしまう問題です。
しかしながら、一方で、自分の持ち味を大切にし、良心に従って、のびのびと自分の教育活動を展開することをも期待されます。
ここに、自分の持ち味を生かし、良心に従って教育活動を展開することに対する期待と剝奪のダブルバインド(double bind 板挟み)が生じることになります。
先日の初任者研修では、このダブルバインドが端的に表れていたので、今回の記事では、そのことについて書こうと思います。



前回の記事でも書いたが、第一回初任研は動画とオンライン講義で行われた。(おそらく、これからも、コロナが終息するまではこのスタイルで行われるものと予測される。)
動画の内容は、以下の通りだった。

①教育公務員としての在り方。
②新任教員としての心構え。
③教員に求められる力。

そして、オンライン講義は、以下のタイトルで行われた。

・Action!

結論を先取りして言うと、今回の記事では、動画の内容とオンライン講義の内容が、初任者をダブルバインド(double bind 板挟み)状況に追いやっているということを書く。
そして、ダブルバインド(板挟み)状況を明らかにした上で、それがなぜ起こるのかということについても掘り下げて考えてみたい。

動画のうちの一つに、②新任教員としての心構えというテーマがあるが、初任研の一つの目的として、初任者に対して、社会人として、初任者らしい振る舞いを身につけさせることというものがあるように思う。
初任者は、教員の世界を知らないものとして教員の社会に参与し、学んでいく者と位置づけられているのである。
それは、たしかに、そうである。ジーン・レイヴとエティエンヌ・ヴェンガーが正統的周辺参加論(ジーン・レイヴ エティエンヌ・ヴェンガー『状況に埋め込まれた学習ーー正統的周辺参加ーー(Situated learning Legitimate peripheral participation)』産業図書、1993年(1991年)。)で示しているように、新参者は、古参者のコミュニティに参加することで、その文化のありようを学んでいく。
初任者は、学校で、ベテランの教員の姿や仕事の仕方を見て、学んでいくのである。そのサポートの機会として、初任者研修は位置づけられているといえる。
初任者研修が、教員としての知識や技能、あり方を探求し、身につけるためにあることは有意義なことである。
しかし、同時に、初任者研修には、初任者に対して、初任者としての振る舞い方や、教師としてのステレオタイプを身につけさせるという側面もあるように思う。
つまり、多様な価値観をもって学校現場に参与することになった教員に、初任者なんだから◯◯をするべきという考えや、教師たるもの◯◯であるべきという考えを押しつけ、画一的な考え方を強いることになってしまう可能性もあると考えられるのである。
もちろん、初任研が、画一的な考え方を強いるという悪意をもって行われているわけではないだろう。
しかし、初任者という立場のあり方を指導する研修を行うということには、少なくとも、画一的な考え方を強いることになってしまう可能性があるということはいえるだろう。
さらに、学校というのは、これは私の感触でしかないが、おそらく、世間で思われているよりも、縦社会としての性格が強い場所である。(もちろん、学校によって職場の雰囲気は大きく異なっており、教員同士の対等な関係が成立している学校もあるが、私の知っている限りでは、そのような学校は少数であるという印象を受ける。)
ベテランの教員の言うことは若手の教員の言うことよりも正しいということは自明であると考える雰囲気が職員室全体に漂っている学校もある。
そういう学校に配属されてしまうと、初任者は、ますます「自分は何も知らない人間で、教えを乞わなければならない存在だ」と思い込まされてしまう。(念のために言っておくと、今いる私の職場は、とても雰囲気が良く、ここで書いたようなマイナスの要素がない職場なので、とてもありがたいと思っている。)
このように、私見では、学校というのは縦社会であり、学校では何も知らない若手は何でも知っているベテランから教えを乞わなければならない存在として位置づけられてしまうということが多い。
そして、そのような環境の中で、初任者は、画一的な考え方を身につけることを強いられる可能性がある。

しかしながら、初任者は、「初任者として◯◯であれ」という考えを身につけるようにと指導されながら、一方で、自分の良心に従い、自由に伸び伸びと自分の持ち味を発揮することが期待される。
オンライン講義では、子どもたちをよく見て、子どもたちの声を聴き、それをしっかり記録して、自分の考えを伝えることが大切であるということが話された。
それは、初任者へのとても暖かいエールだと感じた。
講義では、直接的に言われたかどうか、はっきりとした言葉は覚えていないが、子どもと向き合う中で自分の頭でよく考えて教育活動に取り組むことが大切だということを伝えられたように思う。
自分の良心に従い、自由に伸び伸びと自分の持ち味を発揮して教育活動に取り組んだ結果、学校で関わった人たちと素敵な関係が築けて、今でもつながりがあるという趣旨のことが伝えられた。
この講義を受けると、初任者は、自分も、自分の良心に従い、自由に伸び伸びと自分の持ち味を発揮して教育活動に取り組みたいと思うはずだ。
私も、この講義を受けて、そういう気持ちになった。
そして、それは、教育活動をよいものにするためにとても必要なことであるし、話し手も、自分の思いをストレートに伝えた結果であったと思う。

しかし、それが結果として、初任者にダブルバインド(板挟み)を強いることになるのではないか。
つまり、初任研において、初任者は、初任者としてのあるべき画一的な考え方を強いられながらも、一方で、自分の良心に従い、自由に伸び伸びと自分の持ち味を発揮することを期待されるという相反する要求を突きつけられることになるのである。


では、なぜこうなってしまうのか。
最後に、初任研がダブルバインド(板挟み)を生み出してしまう構造について考えてみたい。

まず、初任者に画一的な考え方を強いることになってしまうのはなぜか。
それは、リスク管理のためにそうせざるを得ないという側面があるだろう。
もちろん、研修を行う側も、一人一人の教員に自分の持ち味を発揮してよりよい教育活動を展開してほしいと考えているだろう。
しかし、初任者の知識や経験が不足していることによって何か問題が発生するかもしれないというリスクを減らすために、どうしても、ある程度、枠づけるようなことをしなければならないと考える。
その結果として、画一的な考えを強いることになってしまうと考えられる。(それが必要なルールの確認にとどまっているのか、不要な画一化を含んでいるのかということについては、重要な論点ではあるが、本稿の主題ではないため、ここでは立ち入らないこととする。)

一方で、研修をする側は、初任者が(初任者に限らず全ての教員がといってもいいかもしれない)、良心に従い、自由に伸び伸びと自分の持ち味を発揮することも期待している。
一見、この期待がダブルバインド(板挟み)を生じさせるということは明らかであるように見える。
しかし、おそらく、研修を行う側は、気づかずにこのようなダブルバインド(板挟み)を生じさせているように思われる。
では、なぜ、気づかずにそのようなダブルバインド(板挟み)を生じさせてしまうのか。
それは、一般的な学校に広く行き渡ってしまっている教員の縦社会の構造のうちにあるように思う。
私見では、一般的な学校は縦社会であると書いた。
縦社会では、年齢、あるいは、キャリアを積み上げる毎に、立場は上がっていく。
もちろん、形式的には、どの職員も平等なのだが、実質的に、ベテランと若手では許される発言権に差が生じたり、ベテランの意見ばかりが通るようになってしまったりする。
そうすると、若手は自分のやりたい活動が制限されて、自由に教育活動を展開できず、ベテランになればなるほど、自分のやりたい活動に対する制限がなくなっていき、自由に教育活動を展開することができるようになるということになる。
さて、そうすると、どうなるだろうか。
初任研で講義をするのは、ベテラン教員として学校現場を経験して教育委員会に入って来る人たちである。
そうだとすると、彼ら/彼女らの学校空間の認識は、「学校とは自分のやりたい活動を自由に展開することができる場所である」という認識になっているのではないだろうか。
だから、彼ら/彼女らは、自分のベテランとしての自由な学校空間という認識を文脈にして、教師としてのあり方を壮大に語るのである。
しかしながら、縦社会における底辺に位置づけられる初任者は、講義者と同じ地平に立っているわけではない。
多くの場合、初任者は、低い地位に追いやられており、自分の良心に従って自由に伸び伸びと持ち味を発揮して教育活動に取り組むことへの制限を受けている。(明示的に制限を受けているわけではないが、実質的に自由を発揮できないような雰囲気に置かれる。)
講義者は、初任者と同じ学校現場で、同じ地平に立って仕事をしているわけではないから、この学校空間の認識の違いに気づくことができない。
よって、講義者は、初任者の地平とは異なる自身の学校空間の認識にもとづいて、良心に従って自由に伸び伸びと持ち味を発揮して教育活動に取り組むことの素晴らしさを壮大に語り、結果的に、初任者のうちにダブルバインド(板挟み)を生じさせてしまうのである。

個々を見ていけば、誰が悪いのでもない。
個々の人々は、良いと思うことを、良いように行っている。
しかし、学校における縦社会の慣習が、初任者のうちに、ダブルバインド(板挟み)を生じさせてしまう。
初任研のうちには、このようなこのような構造が表れているように思う。
改めるべきは、学校における縦社会という悪しき慣習である。
この慣習を排し、職員同士が対等な関係で議論することができる学校を一つでも多くつくっていくべきだ。
私は、このように考える。
なお、繰り返しになるが、現在私が勤めている学校は、ここで書いている内容が該当しない、おそらく、数少ない学校である。そのため、とても快活に過ごすことができており、本当にありがたいと思っている。

しかし、それでも、初任研を受けると、やはり、教員としての画一的なあり方を強いられていると感じることがある。
それは、研修を行う側の話し方のような振る舞いに表れていたり、研修内容の中に密かに潜んでいたりする。
明示的にこれがこうだと言うことはできないが、感覚的に、何か画一的なあり方を身につけさせられているように感じるのだ。
今まで、私が異質でありながらも、自分の持ち味を発揮して、ありがたいことに子どもたちや保護者の方々からの信頼を得ることができてきた一つの要因に、学校的なあり方に染まらずに、自分にとっての意味や意義にこだわってきたことがあると自分では思っている。
この自分にとっての意味や意義というのは、私にとって、どうしても手放したくない、自分にとっての自分が教師をやることの意味であったりもする。
学校が、学校的な人々によって占められた空間であるからこそ、学校的なあり方に染まらない私がいる意味がある。
学校的な空間で窒息している人々にとっての安らぎの場であり、変革の希望でありたい。
それが、非学校的な私があえて学校という空間に飛び込むことの意義だと思っている。
だから、私は、これからも、染まらずにやっていきたい。
たとえ、初任研で、画一的なあり方を強いられるようなことがあったとしても。

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