よろず書き散らし雑記帳
今朝のことだ。ノートパソコンを開いたままトイレに立ってしまった。
用を足し、手を洗いリビングにいざ戻ろうとした時、なにか良からぬことが起こりそうないやな予感がした。予感は予感で曖昧模糊としたもので、ノートパソコンのことは頭になかった。
すぐ戻ればいいものをそうしなかった。洗面所にまで漂ってくるアロマの香りが意識に上ったせいだ。その甘ったるい匂いこそが良からぬ災いの呼び水のように思えてきて、迷わず了解もなく飾り棚に置かれたディフューザーを撤去した。その代わりに青磁の丸香炉を置き、きつめの沈香のお香を焚いてやった。
リビングに入るとすぐに彼女の姿が目に入った。予感は的中していた。真剣な顔をしてパソコン画面を覗き込んでいる。
――読んでんじゃん!
隠し事がバレた子どものように狼狽えた。
――なに書いてたっけ? 確か睡眠のことを……
記憶を巻き戻していた。
――確か眠りが浅くて昼間ぼーっとしているというようなことを書いていたはず。
取り立てて差し障りのない内容だと確認でき胸を撫でおろした。が、彼女の顔を見た瞬間、動揺が襲った。表情が険しかったのだ。
――なんで?
書きかけの文章に目を走らせている。結婚してから毎日綴り続けている「よろず書き散らし雑記帳」と題した日記のような随想だ。
ここのところも引き続き睡眠時間が短く、質も悪い。おかげで昼間は相変わらず夢かうつつかの頼りない世界を漂浪し続けている。
家人は、今朝もまた女神の如き微笑みを浮かべて
「身体も脳も休めてないでしょ。睡眠は食べることと同じくらい重要なことなのよ」
と、優しく声を掛けてくれる。……
「なによ、これ?」
きつい声が発せられた。
――なにが気に障った?
過去の修羅場がちらと脳裏を掠めた。
おずおずとノートパソコンを閉じようと手を伸ばしかけると、やんわり払いのけられた。温かく柔らかい感触が手に伝わってきた。
「『家人』ってなによ」
――そこか……
怒りの矛先がピンポイントを刺し貫いていた。
医療関係者でもある家人は、自分だけでなく私の健康状態にも日ごろから過剰とも思えるほど厳しい目を向けてくれている。
睡眠問題だけではない。脂っこいもの、濃い味のものを好む食の嗜好にも、小言じみたことをちくちく指摘してくる。……
「『家人』、『家人』ってなによ、これ」
書いている時に自分でも「ちょっと、『家人』はないか」という思いがあった。今朝の事なので記憶に新しい。呼称の語彙選びに齟齬があり、表示された文字面にも違和感があった。「こんな言葉を使っちゃいけないよな」と迷った覚えがある。しかしさほど熟考することなく勢いのまま先を書き進めていた。
「ごめん。ほかの呼び方が思いつかなくて」
「家人」などと自分のことを書かれていたら、そりゃあ誰だって不愉快どころか怒りが湧いてくるよなと思う。
「つい」
「つい? そんなもん?」
「他の言葉はないのかって、迷ったことは迷ったんだよ」
「だけど、タイピングしたんだよね?」
「………………」
「家人なんて語彙が浮かぶこと自体、おかしなことよね。私という存在に対する偽らざる認識の顕れでしょ」
「それは考え過ぎだよ」
「私はあなたの召使なんかじゃありませんからね」
「そんなこと思っちゃいないよ」
「感じ悪いわ……凄っごく」
「………………」
「あーあ、伝わってなかったんだね、ちっとも」
「『かじん』であって、決して『けにん』というニュアンスで使ったのではありません。あくまでも、共に家で暮らしている家族という意味合いで、つい」
「自覚しなさいよ!」
「えっ? 自覚?」
一向に改善の素振りが見えない「旦那」に業を煮やしているのか、今朝はとくに鬼神の如く剣のある言葉が次々と飛び出してきた。間近で見つめられて罵られるのは久しぶりだった。一緒に暮らし始めた頃のことを思い出す。よく互いの感情がぶつかり合った。激しい口論にエスカレートすることもあった。
過去の修羅場が頭を掠めた。なにが原因でそうなったのか、どんな火種からだったのか、今はもうよくは憶えていない。
一緒に暮らしてみないとわからないことって確かにある。相手の厭なところ、不快なところ、許せないことなどがあからさまに見えてくる。結婚したての頃には受け流されていた感情が年を経てくると赤裸々な遠慮ない言葉となって飛び出してくる。血縁のない、出会って間もない者同士が家族になるにはそういう多少の軋轢は避けて通れないものなのかもしれない。
なにが飛んでくるかわからないという不穏な胸騒ぎが久々に起こった。ベネチア・ムラーノ島で買い求めてきた結婚記念のベネチアングラスなんかが犠牲になるのかもしれないなどという雑念が浮かんだ。
「わかった。よくわかった。謝る。反省する。深い意味なんかこれっぽっちもなかったんだよ」
「………………」
思わず救いを求める幼子の心持ちに。小心者の、意気地のない根性が顕れる。
「……夜更かしばかりしてちゃいけないのよ」
「ちっとも眠たくないんだよ……」
「なに寝ぼけたこと言ってんの。自覚が足りないのよ。自分の健康管理ができてない。一日、二日ならまだしも、もうずっとでしょ。身体が悲鳴を上げてるのがわからない? もう限界だって言ってるのよ」
叱責ではない愛ある言葉、もっといえば求愛表現であると自分に言い聞かせる。
「専門外来予約しとくわよ」
童子の如き眼をして、心なしか潤ませていたんじゃないだろうか。
「どうしても受けなきゃだめかな?」
「なに子どもみたいなこと言ってるのよ。あなた一人の身体じゃないんですからね」
思わぬ言葉が飛び出してきてどきりとした。さすがにこれはちょっと胸に刺さった。
その日の雑記帳末文――
……日常生活の中で呼称によって不愉快になったり、傷ついたりすることってよくある話だと思い至る。
気にもしないで使っていることがある。呼称に限らず、差別的な言葉も普通に無意識のうちに口にしていたりする。世の中から差別がなくならないのもそんな無自覚な用語使用が下支えしているのかもしれない。
嫁、妻、女房、家内、奥さん、神さん……いずれもなんとなくぴんと来ない。落ち着かない。外では「彼女」とか、内容で分かるような言い方をしているように思う。無自覚、無意識のうちに。
彼女は「主人」「うちの人」「旦那」とか言っているようだが、家では「ねえ」とか「ちょっと」とかが多く、下の名前で呼ばれることも「あなた」と声掛けられたこともない。彼女もしっくりくる呼び方がないのに違いない。確かめたことはないが、多分。
昼間は確かに突然睡魔が襲ってきて朦朧としているけれども、夜間はどういうわけか異様に覚醒しきっていて、映画や動画をだらだらといつまでも観漁ってしまっている。
彼女が言うように、そんなだらしない生活を自分に許してしまっている自己管理のなさが問題なのだろう。
別な日の雑記帳――
ここのところしばしば物が二重に見える。
なんども目をぱちぱちさせても、一向に改善されない。
初めてこの現象があらわれた時は、さすがに失明を心配して熱心に医療系サイトを閲覧しまくった。年齢からくる経年劣化、酷使からくる眼精疲労症状というのが一般的な説明だった。
深刻な原因ではなくてほっとしたものの、生活のあらゆるシーンで頻発すれば大きな妨げとなる。症状が消えてくれるまでつき合うしかないわけで、自分でどうこうできるものじゃない。静物は気にならなくとも文字はだぶってしまって判読に支障が出る。内容がすっと頭に入ってこない。映画の字幕にいたっては、そのスピードについていけず、場面展開の流れに置いてかれてしまう。我慢して観続けているうちに興ざめしてきて観るのをやめてしまう。おかげでなにかやり残してしまっているような不満足感に囚われ、不愉快ムードを引きずっている。
車のように経年劣化したパーツを新品と交換できればいいのだけれど、そうもいかない。壮年に至りし身としては、粛々と劣化しゆく身体とつき合っていくしかないわけで、なんともやりきれない気持ちに陥る。
今日もまた悄然とした顔を晒しているのを見かねて彼女が言葉を掛けてきた。もう受診も生活改善も拒んでいられるような余裕などないのかもしれない。心身共に限界に達してきているのかもしれない。