評㊴劇チョコ『ガマ』@芸劇イースト、4500円
生きてこそ、の思いが伝わった力作。
「生き残った子孫たちへ 戦争六篇」中、唯一の新作
劇団チョコレートケーキ『ガマ』@東京芸術劇場シアターイースト、4500円(全席指定)。8/29~9/4。2時間(休憩無し)。脚本:古川健、演出:日澤雄介。
劇チョコが8/17~9/4、「生き残った子孫たちへ 戦争六篇」として東京芸術劇場B1のシアターウエスト、及びシアターイーストで連続上演した中の、最後の作品、唯一の新作。
沖縄戦末期、あるガマでの、死と生を巡る6人の群像劇
太平洋戦争最大にして最悪の地上戦「沖縄戦」。激戦地首里から数キロ北にそのガマはあった(ーーパンフより)
地上戦の最中、ガマという沖縄に多数ある洞窟の一つに逃げ込んだ男女6人の群像劇。
ガマの内部、深部、入口だけに舞台を限定。劇場は暗くし、観客たちがガマの中にいるかのような演出効果で進めた。
劇チョコが好きそうな、斜めの動線。
6人のうちひとり、唯一の女性が、看護要員として学徒動員されたひめゆりの生徒だった。劇の開始早々、自分の中で沖縄戦の世界が拡がっていく。
戦争にはあまり詳しくない。が、「ガマ」「ひめゆり」について、半月ほど前に“予習”した、ひめゆり学徒隊の朗読劇を鑑賞したのだ。
評㉝新国立劇場演劇研修所公演・朗読劇『ひめゆり』小劇場A席2200円(2022年8月15日)
ひめゆりの生徒たちは軍隊と共に南部に追いやられ、多くが命を失った。
ガマの入口で爆撃を受け死んだ女子学生、負傷兵の傷にわいたウジを「痛い」の声を聞きながらとる作業、「学生さん、置いていかないで」とガマに残される兵たちの声。
それは、半月ほど前に朗読劇で耳にしたばかりの情景だった。
「立派な日本人になりたい」と繰り返すひめゆりの少女
ひめゆりの少女を除く5人は全員成人男性で、別の学校の教師(地元民)、地元住民、兵士3人。
すべての登場人物が戦争を体験し、既に多くの死を見てきている。大切な家族や友人を失い、あるいは敵を、いや同胞ですらスパイの疑いあれば殺したりもしている。将校は負傷もしている。死のうとし、あるいは生き延びようとしている。それぞれの葛藤が表現されていく。
劇を通じて最も心に響き、棘刺すのは、ひめゆりの少女が繰り返す言葉だ。
「立派な日本人になりたい」
「帝国臣民として(死ぬ覚悟)」
その言葉を、誰が嗤えようか。戦後77年、平和な日本の「本土」にいるからこそ、後世から見るからこそ、その言葉の背景が虚ろだったと感じる。「ああ、状況を客観的にとらえていないんだ」と勝手に思う。
皇民化教育。子どもの時分からの教育が、その人を作るのだ、と改めて確認する。
例えば今の自分は、日本人として生まれ育ったと思っている。そして、天皇陛下のために命を捧げなくてもいいと思っている。
それを突然、「お前は日本人ではない」と言われたら。あるいは「立派な日本人になるためには天皇陛下の御為に命を捧げよ」と命令されたら。
大混乱に陥り、自分のアイデンティティを疑うことになるだろう。今まで生きてきた自分の全否定。ましてや、戦時中はその「大義」のために、友人や仲間、目の前の人々が多数亡くなり、負傷している。今更、その「大義」を否定されては。全力で抗うだろう。
「生きたいと思っていいんでしょうか」「生きてないと、問いの答えは出ない」
その少女に対し、「日本は沖縄を見捨てた」と説く教師。従順で素直な沖縄県民を利用し、本土と沖縄を区別したのだと。
少女は「私は日本人じゃないのか」「ここ(沖縄)も日本です」と訴え、受け入れない。
お国のため、と死んでいった友達は、何のために死んだ。死ぬ意味はあったのか。無駄死にか。犬死にか。
米軍に降伏すれば、男は殺され、女は凌辱される。ならば自決する。
男たちはせめてこの少女だけは助けたいと思い、必死に説得する。
命を大切に生きるんだ。死ぬ意味はない。命を大切に生きるんだ。
途中から、地元住民・知念の独断場。長台詞が続く
「生きたいと思っていいんでしょうか」と、少女が心を動かす。
生きてないと、問いの答えは出ないよ。
命どぅ宝(ぬちどぅたから)、「命こそ宝」だよ。
そして、6人は、降伏の白旗を掲げ、ガマの入口を目指す。
ああ、よく出られた。ほっとする。この後、どうなるか、わからない。けれど、少なくとも、生きられる選択の方を彼女彼らはしたのだ。
そこまで、身体に力を入れて観ていた自分に気づく。
芋虫のようにもだえ苦しむ兵士2人
男5人のうち、教師、地元住民、将校はキャラが立つが、兵士2人は最初、それほどたいした役ではないのかと思った。4人を置いて、このガマから一足先に出ていこうとしていたし。
しかし、他の4人に捕まり、手足を縛られ、横たえられる。
ここで、俄然このふたりのもだえ苦しむ生きざまに、焦点が当たった。
首をもたげ、顔をひきつらせ、叫びながら、芋虫のように転げまわる。
これが、リアルだった。比較的前の方の席に座っていたこともあるが、舞台でも歪んだ顔の表情が見え、のたうち回っている人間の肉体、が表現されていた。生きている。
ああ、これは、舞台ならでは、だな。なんだか、急に存在感が増した。
6人全員の群像劇なのだ、と改めてその時思った。
ただ、この舞台で唯一ひっかかったのは、兵士のうちひとり(兄貴分、岸本か?)が、ガマを出ようとした際、「命は惜しくないのか」(だったと思う)に少し反抗したが、すっと反抗を止めて戻ったことだ。やや繊細な表現を欠いた気がしないでもない。もう少し丁寧に抗い、丁寧に戻ってもよかったかも。群像劇ならば。
沖縄言葉、内地への恨み
沖縄言葉は、「であるわけよ」などは頻繁に使われたが、違和感なく、喋っていたと思う(その上手い下手はよくわからない)。「あきさみよー」は一回きりであった。
一番凄みが増したのは、沖縄県民である教師が、負傷し意識もうつらうつらしている(内地から来た)将校に対し、沖縄県民としての恨みつらみを、低いドスの効いた声で沖縄弁で語りかける部分だ。
しかし、劇の途中で、内地から沖縄へ派遣された兵たちも結局は見放された存在、という風に変わっていく。
大和田獏だったのか!
役者たちであるが、特に考えず、観ていた。
教師役の西尾友樹(劇チョコ)は、直前に観た『無畏』に続いて、台詞の多い役で熱演して、凄いなあ、と。勿論、他の役者さんたちもだが。
さて、終盤、ひめゆりの少女にひたすら命の大切さを説いた、地元住民役の、長台詞のあの老優は誰だろう、キャリアのある人なんだろうな、と思い、パンフをちゃんと見たら、
大和田獏(71)だった。
生きてこそ。