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評㊽㊤少しわかった? 鳥公園#16『ヨブ呼んでるよ』@八王子、3000円

 前回、いわゆる「大衆向け」的「娯楽劇」の感想をあえて書いたのは、この芝居の観劇を既に予定し、全然違うジャンルで比較してみたかった向きも大いにある。

 鳥公園(Torikoen)#16『ヨブ呼んでるよ-Hey God, Job’s calling you!-』@八王子市芸術文化会館いちょうホール(小ホール)、全席指定3000円など。追加で買った台本1500円。2023年3月17日~19日。西尾佳織作、三浦雨林演出。上演時間約1時間55分(途中休憩無し)。
 
鳥公園と東京・八王子市学園都市文化ふれあい財団が2022年4月から始めた「演劇のための長くてゆるやかなアーティスト・イン・レジデンス」(ゆるAIR)の第1弾。『ヨブ呼んでるよ』は2017年初演、第62回(2018年)岸田國士戯曲賞最終候補作品。今回三浦の新演出。
 
※この㊤では、観にいくに至るまで、を取り急ぎ。

2019年11月に#15を観て、寝た(すみません)

 西尾佳織。1985年東京生まれ。幼少期をマレーシアで過ごす。東京大学にて寺山修司を、東京藝術大学大学院にて太田省吾を研究。2007年に鳥公園を結成。

 自分的「観劇したら寝た」シリーズの中に、西尾佳織の鳥公園が深く刻まれている。「高尚な演劇」を解さない人間と思われても構わない。岡田利規も合わせ、「わからないことはわからない、と言っていいのだ」と胸を張って言える(偉そうに)。おそらく難解系に分類される。

 と言っても、今回の#16の前に、2019年11月に#15『終わりにする、一人と一人が丘』を観た。そこだけからの感想だ。#15の上演場所は池袋・芸劇シアターイースト(地下)。その直前11時半から、すぐ前の池袋西口公園野外劇場で、宮城聰演出『マハーバーラタ=ナラ王の冒険=』を、どしゃぶりの雨の中で観て(野外だから)、雨合羽を脱いで水を切ってそれでも多分どこか濡れた身体で風邪をひくんじゃないかと怯えつつ(コロナ禍の忍び寄る前だった)、くたくたの状態でシアターイーストに移動し、14時から観劇した。それは一応寝た理由のひとつ。

#15『終わりにする、一人と一人が丘』のチラシ表

 そういや、2017年初演の『ヨブ呼んでるよ』は第62回(2018年)岸田國士戯曲賞最終候補作品だったそうだが(だから、演劇好きの注目は浴びよう)、その際に岸田戯曲賞をとった神里雄大『バルパライソの長い坂をくだる話』の上演を観にいって、私はこっくりこっくり寝た記憶がある(すみません)。自分が高尚ではないのだろうかと思いながら。。

#16『ヨブ呼んでるよ-Hey God, Job’s calling you!-』のチラシ内面から

 さて、#15の内容は忘れた(すみません)。ひたすら掌をつねって寝ないようにした記憶(寝そうな時はよくやる)。その#15を持って、西尾が作・演出兼務を終わりにし、今後は作だけに集中し、演出は別の人間がやること、が鳥公園周りでは大きな話題であったらしい。そして確かトークがあったのだが、西尾は「散文的な言葉で表すことの限界、自分はより詩的な言葉がうんぬん」言ってたような気がする。その時、専ら散文的な言葉と文脈の中で、他人を理解しようと努めてきた自分には、そりゃ理解しがたいよな、と思った。
 ……しかし、西尾が「なぜそう言ったのか」はわからずじまいだった。頭が良い人のようだが、わかるように言ってくれないかな、でも、言葉でわかろうとするのが言葉の限界かな??? 
 今、その時にチラシ(フライヤー)を何度読み返しても、わからない。

 ではなぜ観にいったのかと言えば、その頃は、演劇を集中的に、手当たり次第に観ていた時期だった。としか。

「言葉を持たない人の言葉」「マイノリティのつもりがマジョリティ」

 それから3年半。再び鳥公園のチラシ(フライヤー)を手にした。
 #16『ヨブ呼んでるよ-Hey God, Job’s calling you!-』
 読む。

 「言葉を持たない人の言葉」について考えたいっていうのは初演の時からずっとあります。

鳥公園#16『ヨブ呼んでるよ』のチラシ、西尾佳織インタビュー

 以下は要約(要約という概念自体、西尾的には安易に使用しまいが)※太字は私
 <アーティストは世の中の多数派に添うことができない傾向だろう。観劇にくる人たちも、マイノリティ性に共感的・親和的だろう。が、一方で劇場に来られる時点である種のマジョリティマイノリティ(性)のつもりが、マジョリティ同士の交流になってしまっているのでは。そこへの無自覚さが、劇場コミュニティの狭さになっているのでは>
 ……ふむふむ、「自分たちは主流派じゃない、サブカルだあ!」とか言ってて、サブじゃないじゃん、て感じの指摘? 面白そうである。

#16『ヨブ呼んでるよ-Hey God, Job’s calling you!-』のチラシ内面から

 <他者に対する想像を働かせる、というが、「想像力」が通じ合うのはもともと同質性が高い同士では。「想像してもしきれないことがある」を考えることが大事じゃないか
 
俯瞰するためには、普遍的な価値と言う立ち位置、ある程度共通の価値観や言語を必要とする。その共通の基盤を前提にしている近代的個人とは、かなり規格化されたものだ>
 <支配的な価値観や言語の体系に乗っかった状態>
 <演劇で想像力を駆使するのも、括弧付きの狭い「普遍」の上だけで洗練された共通言語のやりとりということでは仕方ない気がする。むしろ想像力の駆使ということの限界について、やれたら>
 <当事者のことは当事者が語るべき、非当事者が安易に語ってはいけないという感覚があると思うが、当事者が語れないとしたら、その出来事は「ない」ことになってしまう。他人を勝手に理解したことにして代弁せず、その出来事を語れないまま抱えて生きている人の「ひとりの時間」を、観客が見る、ということを考えています>

 ……要約の要約だと(もはや西尾の「言葉」ではない)
 世の中には「言っても通じない同士の世界」が厳然とあって、こっちから見た向こう側の「通じない人」を無理やり“翻訳”“通訳”してこっち側で披露して、伝達したふりすんじゃねーよ、こっち側でも、そのまんま出しちまおーぜ、って感じ?
 ……おお、なんだかよくわからないが、わかった気もしないではない!
! 今回のチラシは、「普遍的言語」を用いているが、理解できた「気がする」。ほんなら観にいくか! 

 時間のある時に、観にいった話を書く。見込み。

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