・今日の周辺 2024年 幻視したひかり、3連休の読書会
○ 今日の周辺
松濤美術館「空の発見」観に行く。
展示室に入る前に、大きな革のソファに座って、昨日までの日記をまとめて、頭を整理したい。
○ Podcast「夜ふかしの読み明かし」シークレット読書会
めちゃくちゃおもしろかった!楽しかった、感動した。
こんなに大勢の人がいる場所でこれほど居心地よくいられたのは初めてのことかもしれない。
私って人と話すのが好きだなあって、話を聞いている側なのにそう感じられる3時間だった。
アナウンサーの西川文野さん、哲学者の永野玲衣さん、芸人・Youtuberの大島育宙さんの3人が、課題図書を設定した「読書会」と、日常のふとした疑問について考える「哲学対話」を軸に話し合うPodcastのリアルイベント。
そこにゲストとして登場するのはライターの武田砂鉄さん(TBSラジオも毎週欠かさず聴いている)。中学生の頃からテレビよりも圧倒的にラジオ派だった私にとって、好きなラジオパーソナリティの方々を一挙に目の前にすることは何かすごく感動があった。耳にする声だけの存在だった人が実在していた!ことに対する感動?
それぞれに専門分野を持つ3人が、課題図書なり、疑問なりに対して、それぞれの視座から一歩踏み込んで話しても、大してギャップが生じず話題がブレずに進行していく、極端な言い回しに依拠せずに、個々の具体的なエピソードに基づきながら話が展開し進行することが安定しているのがいつもすごいなと思うところ。真面目な話になりすぎず、それでいてざっくりとした話で終わるわけでもない、そのことには永井さんの「哲学対話の3つのルール(「よく聞き合う」、「偉い人の言葉を使わない(自分の言葉で話す)」、「「人それぞれ」で終わらせない」)」が手法として定着し、日常的な会話にも緩く作用していることにもよっているのかもしれない。
専門分野・領域が異なる人が集って話すと、そこまで踏み込まず立ち入らずに曖昧な話に終始せざるを得なかったり、話が中途半端になってしまったりと、どのように「結論づけていくか」ということに惑わされ振り回されがちだけれど、まず根本に互いの発言を否定しない、なるほど、という感じで耳を澄まし合い、それぞれの関心や観点から「話を連ねていくこと」に重きが置かれる進行が、必ずしも近接しないそれぞれの話を聞きやすくしている印象。
耳にしていた世界をそのまま空間として経験できたことに快さがあった……。
永野さんがメモを取るのにペンを持っているのに対して、西川さんが割り箸を割ろうとしている姿が隣り合っていたのも、普段Podcastで耳だけで聞いているのでは見えてこなかった、同じ場にいたことによる嬉しさだなと感じた。
それに、こんなにたくさんの人が(そしてそれぞれの具体的な人として)同じPodcastを毎週楽しみにして聴いているのだと知ることができたのもシンプルに嬉しかった。
初めて会うのに「あるある」みたいなもので笑えるのも不思議な体験(西川さんによる青木理さんの口癖「僕は政治記者ではないけれど……」、大島さんによる「僕なんかに言わせるとね……」でたくさんの人と笑えるとは思いもしなかった)。
何か、客席とステージの境界を意識させない感じがあって、Podcastが空間に響く性質を持った「音」を主軸としているという共通認識が場づくりにも影響を与え、シームレスな空間、関係を生んだのかもと思う。
会社にいると自分の感覚や考えって少数派だなと感じることが様々な場面であるけれど、それがこんな大勢と共になりうる場もあるのだということを体感でき、世の中すべてがこうなって欲しいというわけでなく、たまにはこういう経験もあっていいなって。
Podcastやラジオっていい文化だな、視覚偏重な現代において、音声だけでどのように面白さや楽しみを届けるかという工夫やテクニックの新鮮さに驚かされ惹かれるのだと思う。音だけのメディアということもあって、構成人数が限られることでクローズドで小さなコミュニティにならざるを得ず、そこに生じるコミュニケーションはより私的なものになりやすい、ということも。
ふと差し込まれた永井さんの吃音についてのエピソード、提示された疑問に対して考えられる限りの可能性について「この場」より広く想定して発言できることの強さとしなやかさに心打たれる。
私も自分のことを話す中での言い淀みや戸惑いを待つ時間に助けられた方だ。
昼の部だけ参加して、そのあとは珍しくサイゼリヤで一人呑みして、今日のことを反芻した。結局、翌日に夜の部の配信チケットも買って視聴した。
武田砂鉄さんが「絶対後世に残したい本」として紹介した本も新宿の紀伊國屋書店で購入でき、ほくほくの3連休。
○ 誰のための音楽? 映画「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」
現状誰も彼の現実的な救い方を知らない。
人は思い通りにならないし、人は気が変わり、自分の想像(妄想)から外れる、それは誰もが知っていることとしてある。
身体障害のある人に対する救えなさを突き詰めて描いた映画が「ダンサー・イン・ザ・ダーク」だとすれば、過去のトラウマと精神障害のある人の救えなさを描いたのが「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」だと思う。
障害のある人や抑圧に押しつぶされ追いやられた人を客体化する社会の中では、その人はスクリーンの中の存在のように手が届かないように感じられ、その認識を映画で描くことでそのことを二重のスクリーンを通して伝える。
しかしながら、その人も手の届かない、わかりえない人ではない、ということを同時に異なる側面を交互に繰り返し翻し連続する構成で見せている。一人の人とこの社会とに絡む複層性と多面性に、目を逸らしてしまいたくなるような極端な喜怒哀楽の表出を、戸惑いながらこのままに受けとめておくことが、この映画を見たことのひとつの意味のように思える。
極端で過剰な表現には、極端で過剰な言い方になってしまう。この後で、もうこのような強烈な描き方をしなくて済むような方法について、考えたい。
これは意図から外れる解釈だと思うけれど、レディ・ガガ演じたリーがリスクを負うこと、危険や不安をも顧みずに能動的にアーサーの理解者であったら。そのようにアーサーに近づき、母親でもガールフレンドでもない存在として共にあり、過去から解放することができる存在として描かれたら/描かれるのではないかということを劇中に期待する自分がいて、リーの奔放で周囲の抑圧をもものともしない振る舞いに、人を信頼させる凄みというか、逞しさというかを見出せるような気がしたのだけれども……。女性にそのようなステレオタイプな役割を担わせたいと思うのでもなく、リーには固定観念を払拭し、個人として目の前の人をエンパワメントする魅力が垣間見えた瞬間があったのだ。そうではなかった終幕に、幻視したリーの姿は心の中に残しておく。
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窓の外にものすごく大きく光る満月を見る夢を見た。
松濤美術館「空の発見」、フライヤーに使われている、香月泰男「青の太陽」という作品とその青がとてつもなく目と関心を惹きつけて行こうと決めていた展覧会。
高校2年生のときから自分で調べて美術館やコマーシャルギャラリーを回るようになって10年ほどが経つけれど、ようやく展覧会もまた括弧付きの「美術史」による客観的な視点だけで作られているのではない、学芸員やキュレーターの狙いや熱の入り方が現れるものなのだな、どういったことをどのような視座から、たとえば、異なる史実の流れに基づいて論理的に、もしくは鑑賞者の感覚・身体的な経験に訴えるかたちで伝えようとする、という展示構成上の狙いを受け取ることを意識できるようになったと感じる。また、公的な施設である美術館として、だけでないキュレーター個人の経験や視座をより打ち出していくべきものとする企画も増えてきたこともあると思う。
出展作家一人ひとりの略歴と展示作品の制作に至るまでの説明が丁寧に添えられ、会場の章立てと解説の几帳面さに担当学芸員の熱を感じて図録を購入して帰る。