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シェラ・デ・コブレの幽霊
(Vtuber配信用の台本)
字幕:「シェラ・デ・コブレの幽霊」の感想
字幕:前半ネタバレ無し、後半ネタバレ有り
良い映画を褒ほめます。
詰まらない映画も褒めます。
信じる・信じないは、あなた次第。
「今日も優しく、うそを語ろう」
映画「シェラ・デ・コブレの幽霊」をアマゾン・プライム・ビデオで観ました。
最初に結論を言っちゃうと、面白かった。
ホラー(怪奇もの)とミステリー(推理もの)をジャンル・ミックスさせた映画でした。
僕は大いに楽しんで観ましたが、何しろ1960年代(50年代?)にテレビ・ドラマのパイロット・フィルムとして作られた作品ですから、人によっては単に古臭いだけのホラー映画に思えてしまうかもしれません。
白黒だし、見るからに低予算だし、特撮技術も現代から見れば未発達だし……
ある程度、観客の方で手心を加えて観てあげる寛容さは必要かもしれません。
時代や予算から来る特撮技術の未熟さは有りますが、映像センスは良い感じです。
冒頭のシーンから、もう良かった。
咽び泣く女性(幽霊?)の声をバックに、墓場の映像から始まります。
それが徐々に、都会を高所から見下ろす映像に変わっていきます。
墓石と高層ビルをオーバーラップさせる所にセンスの良さを感じます。
続いて、浜辺を歩いている心霊探偵(本職は建築家)
丘の上には、近代的なデザインの一軒家。これはマット絵でしょう。
上の階に行くほど大きくなっていく「ウルトラマン」の科特隊基地と同じタイプの建物です。
この時代(1950年代後半〜60年代)に建てられた近代建築の特徴です。
当時最先端の建築デザインと、それを設計し自ら住んでいる心霊探偵を映す事で、彼が「近代科学と論理を重んじる人」であると暗示されます。
場面が切り替わって、今度は森の中の門を潜る自動車、さらに切り替わって、屋敷の窓辺に立つ男を映します。
・墓場→近代的な都市
・近代建築→森の中の古そうな屋敷
と、対比が続きます。
物語の導入部分だけを軽く紹介しましょう。
窓辺に立つ若い男は屋敷の主、マンドール家の当主です。
彼は生まれつき目が見えません。
マンドール家は旧家で、広大な森を所有しています。
そこへ、当主の妻が現れます。
彼女は、盲目の当主の代役として、マンドール家の莫大な財産の管理のためニューヨークへ出張していたのでした。
「ただいま」「おかえり」みたいな夫婦の会話と、ぶっちゅう〜的な濃厚キスをひとしきり終えた頃、突然、二人の部屋に不気味な老婆が入って来ます。
なんと、妻が出張で不在の間に、夫は妻に黙ってこの怪しい老婆を家政婦として雇ったのでした。
どう考えても、奥さん激怒案件ですが、あまりにも不気味な家政婦の顔に気圧されて、奥さんは怒るどころか恐怖に怯えます。
……という感じの導入部です。
では、これからネタバレ感想に移ります。
(少し、間を空ける)
怪奇小説(ホラー小説)と推理小説は、どちらも「ゴシック小説」から派生した兄弟のようなジャンルです。
単純化して言うと、冒頭で提示された「奇怪な出来事」に対して、超自然的な結末を迎えれば「怪奇小説」、論理によって解決されれば「推理小説」です。
両者をミックスさせたようなジャンルも存在します。
仮に、「怪奇探偵もの」と名付けましょうか。
現代の日本なら、三津田信三がそれに当たると思います。
今ふと思ったのですが、鈴木光司の小説「リング」とそれを原作にしたホラー映画「リング」なんかも、怪奇小説的要素と推理小説的要素が融合した「怪奇探偵もの」と捉えられるかも知れません。
主人公である怪奇探偵の属性は、大きく以下の2つに分けられます。
その1。
推理・論理の基盤は、あくまでも科学的思考。
しかし神秘的・超自然的な要素も否定しきれないというスタンス。
その2。
推理・論理の基盤が、そもそも神秘(オカルト)である。
この場合は、むしろ「怪奇ハンターもの」と呼ぶべきかも知れません。
「ドラキュラ」に出てくるヘルシング教授のような人物を主人公に据えた物語ですね。
「シェラ・デ・コブレの幽霊」にはオライオンという怪奇探偵が登場します。
彼は、どちらかというと「怪奇」よりも「探偵」の要素が強いタイプです。
超自然的な物に惹かれつつも彼自身は論理と科学の人、というキャラクター設定です。
しかし、だからと言って幽霊の存在を完全否定している訳ではありません。
実際、映画の中で彼自身も幽霊を見ます。
事件は、オライオン探偵によって一応の(論理的な)解決を見ますが、その後、家政婦は呪いによって死に、若きマンドール夫人も呪い殺されます。
この、「近代的な論理思考」と「亡霊の呪い」の間を行ったり来たりする感じが「怪奇探偵もの」の醍醐味です。
家政婦とマンドール夫人が実は母娘だったというオチも良かったです。
冒頭、家政婦が現れたとき、なぜ夫人があれほど怯えた顔をしたのか?
観客は「家政婦の雰囲気が不気味だったから」とミスリードされます。
富豪の若き妻が恐怖した本当の理由は、その家政婦なる人物が、じつは彼女の母親だったから、と物語の終盤近くになって明かされます。
この家政婦(正体はマンドール夫人の母親)は、かつてメキシコで霊媒師を装って観光客相手に詐欺まがいの商売をしていて、当時まだ幼かった娘に片棒を担がせていたという過去が暴かれるのです。
これが明かされたときには、僕も「なるほど、そういう事だったのか」と納得させられました。
この話、「毒親もの」だったんですね。
最初の幽霊すなわち電話越しに聞こえて来る「死者の声」が家政婦のトリックであることは早々に明かされるのですが、この物語の推理小説的ポイントは其処じゃなくて、他人だと思われていた家政婦と夫人が実は母娘だったという所です。
さらに、この物語は「心霊探偵もの」なので、真実が明かされただけでは終わりません。
家政婦が演じていた偽物の幽霊とは別に、本物の幽霊が登場し、メキシコ時代の悪事を精算させます。
いわゆる因果応報ですね。
因果応報ホラーというのは、現代の感覚では古臭いものと思われがちですが、この映画に限っては、それが良い味わいになっています。
実際、1960年代(50年代?)に作られた古い映画でもありますし。
そして、さらに、この映画は、単なる因果応報ホラーを超えている部分があると、僕は考えます。
その件に関しては、後で言います。
さっきも言ったとおり、映像センスは良い感じです。
白黒映画ならではの陰影を強調した画作りは、ちょっとノワール映画っぽくもあります。
あ、そうか、水木しげる漫画とか楳図かずお漫画に出てくる「登場人物が激しい恐怖を感じた時に、顔のアップになって陰影が強調される」というコマ割の技法は、この時代のホラー映画演出技法を漫画に落とし込んだ物だったのか。
最後にマンドール夫人も呪い殺されます。
かつて幼い彼女が母親の殺人の片棒を担いだのは、もちろん毒親が娘に悪事を強要していたからです。
マンドール夫人自身が毒親の被害者です。
しかし呪いは、そんな事お構いなしに彼女を死に追いやります。
この、やるせない感じが「シェラ・デ・コブレの幽霊」を単なる因果応報・勧善懲悪ホラー以上の物にしていると思いました。
(ただし、マンドール夫人が見た幽霊は、彼女が直前に服用した幻覚剤のせいだ、という解釈の余地は有ります。それにしても、やるせない結末です)
何というか、単なる因果応報・勧善懲悪のように見せかけて、実は、善悪では割り切れない人の世の業の深さを表現しているように思うのです。
そういう所は、日本の怪談「牡丹灯籠」とも相通じる気がします。
なるほど……
ノワール映画のノワール(暗黒)たる所以は、単なる因果応報・勧善懲悪では割り切れない人の世の業を表現しているから、か。
そういう意味では、日本の怪談とも共通点があるんだ。
そろそろ、まとめに入ります。
今日、発見したこと。
その1。
「シェラ・デ・コブレの幽霊」はノワール映画だった。
その2。
と、同時に、「シェラ・デ・コブレの幽霊」は日本の(古典的な)怪談にも似ていた。
その3。
「A=B、B=C、すなわちA=C」的な3段論法により、
「シェラ・デ・コブレの幽霊」はノワール映画。
「シェラ・デ・コブレの幽霊」は日本の古典怪談に似ている。
すなわち、ノワール映画と日本の古典怪談は似ている。
「善悪では割り切れない人間の業の深さ」を表現しようとしている、という意味で、日本の古典怪談とノワール映画には共通点がある、という発見がありました。
最後に1つだけ、プロットの穴を指摘し、苦言を呈したいと思います。
いくら自分の敷地の中だとしても、窓を開けたまま、ドアに施錠もしないままロールスロイスを乗り捨てるというのは、あまりに現実味が無いと思います。
クルマの鍵を「失くした」と若奥さまは言っていますが、実際にはイグニッション・シリンダーに挿しっぱなしだったのでしょう。
それを家政婦が盗んだという話の筋は分かりますが、リアリティがありません。
では、今日は、この辺で。
(少し、間を空ける)
「僕の言うことは全て、うそだ」
と、クレタ人が言った。
「今日も優しく、うそを語ろう」