掌編小説 ユートピア

 ある冬の日、私は会社を休んだ。
 精神的に調子が悪かった。知らないうちに、心労が積み重なっていたのかもしれない。特別嫌なことがあった訳ではないのに、悲観的になってしまった。
 無理して働こうと思えば働きに行けたのだろう。そんな想いが私に罪悪感を芽生えさせようとしたが、心がブレーキをかけてしまっている今、罪悪感に揺さぶられるなんてことはありえなかった。

 今にもこぼれそうな涙を拭い、すっぴんの顔にマスクをする。雑に髪を整え、昼食を買いにスーパーへ向かった。
 やはりこの時間帯に外を歩くのは、変な感じがする。昔、ニートだった頃にはなかった感覚だ。私も今や社会の歯車か、と心の中で嘲笑した。

 スーパーは、一人暮らししているアパートから歩いて行ける距離にある。とても近くて便利なのだが、その日に限ってはとてつもなく遠いように感じた。
 決して悪い意味ではない。何てことない見慣れた景色が、今日だけは特別に思えた。
 周りには誰もいない。晴れ渡る空の下、日差しが思いの外あたたかくて、私は小さく驚く。木々の緑が光を受け止めて、きらりと輝いている。生命とは、本来こういうものなのか。なんて美しいのだろう。

 時間がゆったり流れていることに気付いたとき、どこか非現実的な空間に迷い込んだかのような錯覚に陥る。
 ユートピアがあるとしたらそこに人間は存在しないのではないかと、ふと思う。騒がしいものはいらない。ただそこに静寂と光がある。余計なものはいらないのだ。
 永遠ではないこの世界で、永遠を期待してしまう。それでは危ういと身構えるのと同時に、ずっと幸せでいられるならそれでもいいのにとズブズブ深みに嵌っていきそうになる自分もいる。
 そう、幸せはずっと続いてほしい。苦労などしたくない。それが私の本音。消えないで、ユートピア。

 不思議な感覚だった。スーパーに行くときのユートピアは、帰りにはもうなかった。
 歩く度に、手に持った買い物袋がカサカサと音を立てる。現実の音がする。
 明日、出勤できるかな。こうしてまた、日常に戻っていく。

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