掌編小説 母校

 大学卒業後に上京し、長らく東京に居座っていた私が今、博多行きの新幹線に乗っている。深いブルーのシートにもたれ掛かりながら、とめどなく流れていく景色を目で追いかける。あ、富士山だ、なんて心の中でつぶやき、久しぶりに故郷へ向かっている実感を持つ。
 まもなく名古屋、というアナウンスを聞いて、のそのそと席を立った。荷物はそれほど多くない。実家で一泊したら、また東京に戻るつもりだ。

 ちょうど一ヶ月前のこと。小学校時代の担任から手紙が届いた。
「お元気ですか」
 ありきたりな書き始めだが、懐かしい人から送られたその言葉に胸がいっぱいになる。
 手紙を読み進めていくと、どうやら担任は今春に私の母校に校長として赴任したらしい。そこで偶然、教師をしている私の友人と再会し、私の近況を耳にしたとのことだった。
 私は、東京のデザイン会社に勤めている。そこそこの規模の会社で、いくつもの実績があると自負している。絵を描く仕事に就く、というのは、小学生の頃からの夢だった。入社したてのときこそ辛くて逃げ出したくなったりしていたが、中堅になった今、こんな私も部下を持つようになり、精力的に働いている。
「ぜひ私の学校で、夢をテーマに講演をしてもらえませんか」
 手紙の終盤、その一文に面食らう。この私が、小学校で講演を? 困惑した。ひどく躊躇し、断ることしか頭に浮かばない。
 小学校時代、引っ込み思案だった私は、今でも変わらず引っ込み思案だ。会社でのプレゼンやミーティングは、仕事だと割り切っているからできるのであって、プライベートの私は決して明るい人間ではない。
 せっかくのお誘いだけど、断ろう。そう思い、再び手紙を読み進める。手紙の三枚目、追伸を読んで心が小さく飛び跳ねた。
「この夏も、校庭の榎が青々と輝いています」
 当時の記憶が一気に蘇り、タイムスリップしたかのような錯覚に陥る。同級生たちの楽しそうな笑い声、廊下を走る足音、そして、校庭の榎が風に吹かれた時のざわめき、木漏れ日――。
 その榎は校庭の真ん中にあり、学校のシンボルだった。それは今でも変わらないのだろう。友達と榎の周りを回って遊んだことを思い出す。思わず笑みがこぼれた。

 手紙の返事を送ると、トントン拍子に話が進んだ。私は、講演の誘いを引き受けることに決めた。今の子どもたちも、目を輝かせ胸をときめかせていたあの頃の私と何ら変わりないだろう。あの頃の私がいたから、今がある。ようやくその恩を還元するときが来たのではないかと考えたのだった。

 名古屋駅に着くと、いよいよ緊張してきた。自分が思っていたよりも遥かに緊張していたようで、その後のことはあまり覚えていない。母校の正面玄関で、少ししわの増えた担任が温かく出迎えてくれたことだけは覚えている。
 緊張がほぐれてきたときには、すでに講演も終わりがけだった。話を聞く子どもたちの眼差しが思いのほか真剣で、感銘を受けた私もそれに応えるためになんとか緊張を振り払い、最後までやりきることができたのだった。
 拍手が鳴り止んだタイミングで、校長がマイクを持った。
「本日はありがとうございました。では最後に、感謝の気持ちを込めて、児童たち全員で校歌を合唱します」
 驚いている私をよそに、子どもたちはその場で立ち上がる。ピアノの伴奏が始まった。聴き覚えのあるメロディーが空間全体を包む。
 子どもたちの歌声が、とても近くに感じた。二十年ぶりに母校に帰ってきて、校歌を聴く。今のこの光景と、当時の私たちが重なって見えた。何も変わっていない母校への安堵感と、いつの間にか変わってしまった自分への小さな驚嘆がごちゃまぜになる。
 お礼を言いたいのは、私の方だ。溢れ出そうになる感情を堪えて、私は深くお辞儀をした。

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