[感想文]『大使とその妻(上・下)』水村美苗作
失われていくものを守り、あるいは失われたものを求めるのは人間らしい行動だ。水村美苗氏が守りたかったのは、日本語の言葉遣いと文化であった。作者はその思いをアメリカ出身のケヴィンに託す。
話は軽井沢の追分を舞台に、小屋を購入したケヴィンとその隣の山荘(ケヴィンは「蓬生の宿」と呼ぶ)に引っ越してきた元大使の篠田氏とその妻貴子との交流を軸とするケヴィンの手記という形で進む。
当然、ケヴィンによる文明論は書かれているが、それ以上に印象に残るのは追分の自然描写で、読むだけで少し湿り気のある清涼な空気を湛えた追分の自然の中をケヴィンと共に歩いている気分になる。
貴子の言葉遣い、立ち振る舞いに「失われた日本」を見出すケヴィンは交流を深める。貴子が特に固執するのは能で、能はこの小説の通奏低音でもある。能舞台で舞う貴子の姿、蓬生の宿に飾られた能面、そして彼女の生い立ちにも能は関わってくる。
さまざまに恨みや念を残してこの世を去った幽霊を、再びこの世(=能舞台)に出現させ、その思いを語るのを聞き、恨みや念を晴らして成仏してもらう。それが能の担う「鎮魂」という重要な役割なのです。
貴子は幽霊ではないが、この構造は本作にも当てはまる。「失われた日本」に固執する貴子の「狂気」は、作者自身の「狂気」を膨らませたものではないか。そしてケヴィン(=作者の投影)が貴子との交流を通じて、彼女の念(=作者の念)を払ったとするなら、この作品は「作者の作者による作者のための能」なのだ。
「これが最後の長編小説になるかもしれない」と語った作者の言葉が思い出される。小説にしたいものが尽きたのかもしれない。それでもなお、読み終えた後、次の作品を期待せずにはいられない文章がここにはある。