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仏教福祉 各論 1.古代の仏教福祉

ー奈良、飛鳥時代ー

⑴聖徳太子

6世紀末は氏族制度が弱体化し、社会秩序が混乱した時代である。この時期に活動したら聖徳太子の仏教福祉的な活動には次のようなものが知られている。

①四天王寺四箇院の建立
四箇院とは……
敬田院……四天王寺の本堂
施薬院……医療供給の施設
悲田院……生活扶助を必要とする者の収容施設
療病院……救急療養施設

②土木事業(池、溝、道など)の展開
池溝等は古来灌漑用水設備として整備が言われていたが、それを仏教的な思想で裏付け農業生産の向上と庶民生活の安定のために行われた


⑵行基

行基はその業績から『菩薩』と称され多くの尊敬を集めている。
667年、河内国大鳥郡(今の大阪府高石市)に生まれる。出家したのは15歳のとき。行基が生涯の師として帰依したのは薬師寺の僧道昭である。
行基は畿内を中心に橋を6ヶ所、堤を1ヶ所、池を15ヶ所、溝を7ヶ所、港を2ヶ所、堀を4ヶ所、布施屋を9ヶ所開所しつつもいつも民衆の中に積極的に入り仏教を広めて回った。また、未開発の土地を開くのにも力を尽くしたと言われている。

行基の実践とその考え方はこの当時の世相も色濃く反映している。つまり、この当時の社会は乱れ、飢え、疫病が流行し社会的に非常に不安定な時代であった。このような時代的背景からみても、慈悲を実践する仏教者として民衆の中に入ってその教えを説くようになったのは当然の成り行きであったと言えよう。本格的な僧侶が現場まで立ち入り、慈悲を実践したのは行基が最初だったのではないだろうか。現代で言うところの『ボランティア』のはしりではないか。

行基最大の業績『大仏建立』。これも当初民衆から反対の多かった事業であるが、民衆の中に溶け込んでいた行基だからこそ反対者の説得もできたのだろう。いずれにせよ『菩薩』と呼ぶにふさわしい僧であったことは間違いない。


⑶奈良時代の仏教福祉活動
奈良時代前半までの行基の活動に加え、多くの仏教福祉実践がなされ、橋を架けたり堤を作り河川や道路の開発、修復がなされた。主要なものは次の通りである。
①土木関係
759年、東大寺僧・普照は畿内7道の駅路に植樹
761年、東大寺は平城京近辺に布施屋を作る

②医療関係
703年、大和の医僧・法蓮は病人を救済した。これが仏教医学のはじめとされる。
723年、興福寺に施薬院、悲田院が設置される。
758年、光明皇后は施薬院、悲田院を設置。ハンセン病救済の祖とされる。この頃から各寺院に温泉ができるようになる。


ー平安時代ー
平安時代は4世紀の間都が平安京に置かれるが、前半は天皇中心の律令体制、後半は摂関政治から武家政治への移行期であり、末期は政治的社会的混乱状態を呈していく。

⑴最澄
日本天台宗開祖最澄は比叡山延暦寺を開き、遣唐使として中国に渡ったあと、日本天台宗を創始する。その仏教福祉的な事柄は次の通り。

広済院の開設(815年)
東国布教した際に美濃国と信濃国の境の長坂に布施屋を開設した。無料休憩所兼救済所で、行基に前例がみられる。

⑵空海
真言宗開祖空海は、留学僧として唐に渡り。インド伝来の密教を学んだ。のち、高野山金剛峯寺を創設している。その仏教福祉的な事柄は次の通り。
①讃岐国(香川県)の満濃池(まんのういけ)
満濃池は8世紀初頭に作られた人工池で9世紀初頭の決壊により地元民は水不足に悩んでいた。空海は3年あまりで完成させた。

②綜芸種智院の設立(828年)
綜芸種智院は身分の如何を問わず仏典などを教育する場。当時、庶民教育は忘れられていたが東寺(教王護国寺)内に設立したもので、庶民教育機関の先鞭とされている。現在も『種智院大学』という形で残っている。

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