見出し画像

自己紹介(僕が”狂人メンタル”と言われるようになったわけ)

今更ながらnoteを書いてみようと思います。お読みいただく前に少しでも私という人物が伝わればいいなと思い、社会人デビューから今に至る経歴をいくつかテーマに分けて書いてみました。少し長いのですが一生懸命に書いたので、ぜひ読んでみてください。

1:ハードワークとワークハード

新卒入社で toC の営業部門へ配属。元々の負けん気から新人賞や昇格昇進など社内での最短記録を全て更新。それからも毎日売上を上げることだけを意識して生産性も考える事も無く、ほぼ休まずにがむしゃら営業をし続けていて最終的には25歳で管理職も経験。詳細は省くが色々な修羅場にも遭遇し、25歳といえど、経験値は相当なものだと思う。(当時、今の時代のような残業規制などは無く、むしろ休日出勤なども強制する社風だった)

当時は若手ながらに売上が常に社内トップである自惚れもあり、こんな働き方には疑問が無かったし、新卒入社なので社内のルールが自分の全てだった。全てにおいて”仕事が最優先”という考え方で、今の奥さんと出会ったのもこの時期だが、初デートに仕事で3時間遅刻したのこともあるのはここだけの話。今、改めて考えたら本当にひどい働き方だと思うし、時給で考えるとゾッとするのが本音だが、この時にビジネスマンとしての基礎体力をつけることが出来たと考えていて後悔は全く無い。むしろ感謝である。ここで【ハードワークとワークハード】という概念を学ぶ。

そしてとあるキッカケから自身の営業力は他でも通用がするのかを試してみたいと思い、toB の営業職へ転職を決意。有難いことに部長や先輩方に引き止めをいただき辞められたのは退職意向から1年後。全力で転職活動をする為に次を決めずに辞めた。ちなみに転職は正反対の営業をしようと思い、「有形 → 無形」「個人営業 → 法人営業」と四角形で言うと対局になる会社を軸に探して決めた。今振り返ってもド変態な選択肢だと思う。

2:転機と挫折

嬉しい事に次の職場でも前職で鍛えた営業力は通用し、比較的早めに初受注がいただけたり、新人賞やその他社内の賞も受賞できた。後でわかったことだが、直近で入っていた中途採用の先輩方は馴染めずにすぐ退職されていたそうで、私の時の採用基準は「ストレス耐性が半端なく強そう」だったそうだ。

入社して1年後にはある程度大きな取引額のクライアントを任してもらえるようになり、毎日大変ではあるものの自己有能感は高かった。しかしこの年に自らの人生において財産と思える大きな挫折を味わう事になる。

今では大恩人にあたる方だが、東京本社から私のいる大阪支社にかなり尖ったキャラのマネージャーが異動をしてきた。口調も荒く行動や態度もでかい(笑)。そしてその方のミッションは「大阪支店で大口顧客専属の営業グループを立ち上げる」だったらしい。

今さらになるが私の転職先は人材会社で、簡単に言うと”人を採用したい会社に求人広告を販売する”という仕事をしていた。この大口担当というのは有名企業はもちろんのこと、営業目標も単月で今の3~5倍になるような大きいマーケットでの仕事になるということである。(当時、外から見た大口担当者はキラキラしたものを感じたが、実際には超泥臭い営業活動が必要な組織というのは知る由もなかった)

その口調の荒いマネージャーはどこから仕入れたかわからないが、私はストレス耐性が強いという情報を耳にされたみたいで、その大口組織に引き抜かれた。今思えばこれが今の私の転機だと思う。

異動直後に強い挫折を味わう。そのマネージャーと仕事における会話ができないのだ。会話ができないというのはもちろん日本語が話せないという意味ではなくビジネス上で必要になる経済の知識・法人営業としての基礎知識が私には圧倒的に欠けていた。あえて圧倒的と表現したい。それくらい挫折感を味わった。

3:ビジネススキルは掛け算である

この挫折を味わった瞬間、同時に今まで自分の武器は「対人コミュニケーションスキル」しかないと気が付いた。簡単に言うとキャラ売りだったのだ。前職ではキャラ売りで十分に活躍できたが、今のマーケットではそのスキルは最低限あればいいだけで、他のスキルがまだまだいる。

必要なスキルや知識を0~5で考えた時に、私の場合コミュ力は5だけども、経済の知識やマーケティングの知識などは0に近しいレベルの1で、掛け算をすると悲惨な状態となる。早い話、即戦力にならなかったのだ。この経験から【ビジネススキルは掛け算(総合力)】であると学んだ。この学びが今の私を作っている。

それからは上司から定期的に出される問題に対して回答できるように日経新聞やビジネス書など経済や仕事に関するインプットとアウトプットを繰り返す毎日だった。恥ずかしいことだが、ニュースをしっかり見たのはこの時が人生で初めてだった。年齢で言うと27歳くらいだろうか。当然に今まで使ってこなかった部分の脳を使っている感覚で最初は”辛い”が先行していたが、あっという間に”やらないと落ち着かない”に変わったのは自身の順応な部分に感謝したい。あと上司からは毎日のようにバカ呼ばわりされていた(笑)

4:誰でも変われる。消防士デビュー。

毎日バカ呼ばわりはされるが、持ち前の気合と根性で早々にクライアントを持たせて頂ける最低基準には達していたようだ。ここからが本当の意味でこの会社での私の濃い思い出が始まる。

大口を担当するということで扱う額も一桁変わりキラキラしたものをイメージしていたが、現実は真逆だった。むしろ今まで以上に泥臭い。驚いたのは、どのクライアントも広告費を〇千万円以上弊社に発注しているということもあり、営業担当に対してかなり強気のコミュニケーションをとってこられるのが印象的だった。中には営業を奴隷のように思っている方も少なくはない。

これは想定外だったが、元々私はコミュニケーションスキルが人より高いこともあり、私のクライアントは上記に書いた”営業を奴隷のように扱う系の企業”がほとんどだった(笑顔でNOが言えると期待されて抜擢)。

今までの前任者がそのストレスによって退職していくので、私がその後任として次々にその神様のような企業を引き継いでいく毎日。仕事については前任は担当者に言われるがままの奴隷だったが、幸い私は笑顔でNOと言える関係を作るのがまだ容易な方だったので、歴代の前任よりかはうまくクライアントをコントロールできていただろう。でも1度だけ企業に軟禁されたこともある。(どちらにせよ要望が強すぎで夜中の3時まで求人表を作っているなんてことも普通にあった)

そんな毎日が続き、社内では私に対して「モンスター系クライアント専属担当者」という恐ろしいイメージが付き始め、同じグループの大口クライアントがお怒りになった(以下、炎上と表現)時に、「炎上しているぞ!消火してくれ!」とすぐに私が後任となり、炎上中のクライアントに訪問するという謎のルーティーンも出来上がっていた。そんな私を「消防士」と社内では呼んでいたらしい。この時期には他の営業マンにはできない自分のスキルが活かせるフィールドがあったと前職の自己有能感を取り戻しつつあった。

5:葛藤

時系列で言うとこの4章と5章の間では約2年ほどあるのだが、この記事では割愛。私はこの組織では既にエース的ポジションになっていた。ここで少し説明をしておきたいのだが、求人会社にとっての大口顧客はそれだけ採用費をかける会社ということで業績好調・業務拡大もあるが、実は定着せずに人を採用し続けないと事業が回らないという俗に言う”ブラック企業”も多いのが実情である。特に私は担当している企業の8割は「入社して1週間続けば拍手だよ」とそこの人事が自慢げに言う会社の営業担当をしていた。事実そこの求人票で使う写真はすぐ人が辞めてしまうので毎月カメラマンを手配していた。

そういう会社であればあるほど求人条件は良い。未経験で月給30万円スタート、そして休みも平均より多い。これは決して嘘ではないが業務内容は求人票に書いているよりもはるかにハードで営業成績未達成の場合の上司からの詰めも相当キツイ。(ここは詳細を書かずにぼやかしている)

このクライアントたちへの定期訪問では入社後の定着やより詳細な情報を書いて、事前の覚悟醸成や入社後のミスマッチを減らそうと提案するものの、人をコマとしか見ていない経営者や担当者は納得するはずがなく、オーダーは変わらず「いいから。とりあえず安く人を集めて」というもの。

こういう企業群ばかりを担当している中で、とうとうで自分のクライアントの中で早期離職かつ転職を繰り返してしまっている方をデータ上で発見してしまう。私と同じような企業群を担当している同僚があと2人いて、3人でこのような現実を想像しながらも現実には目を背けていたのだが、とうとう出会ってしまった。この日から【私が目標達成をし続ければし続けるほど、日本経済を悪くする(日本の労働者の履歴書を汚してしまう)のではないかという葛藤】に襲われていた。

6:決心

葛藤から半年以上働き、先ほどの同僚2名は既に退職が決定していた。この記事で詳細は省くが、私も同様に退職をある程度決意して日頃の業務に従事していた。相変わらず奴隷のように無茶難題の依頼がクライアントから届いたり、後輩の指導や別組織の新人への勉強会などが重なり業務量が異常に多かった。5時から23時頃まで働いて家で仮眠したのちに4時くらいからまた働くというサイクルが出来上がっていたが、当時は辛いとかしんどいとかの感情は無かった。5章で感じた葛藤への罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれない。

もうこの時には結婚もしていて(1章に出てきた初デートの遅刻を許してくれる寛容な女性)、妻には私が仕事人というのはしっかり伝わっているものの、この生活サイクルにはさすがに心配されており、もう少し落ち着く”普通”の仕事をしてみるのもどうかと家族で話すこともちらほら増えていた。

確かに当初の転職動機である”自身の営業力を試す”という目的は果たされていたし、この会社の主力事業における花形組織のエースとして働けたことにある程度の満足感があった。しかも実はこの時には私を引き上げてくれた大恩ある口調の荒い上司は、この組織の立ち上げ完了としてもう異動しており次の上司が東京から来ているという状況で私はこのタイミングで転職を決意した。

7:引継ぎと転職

4月中旬に新しい上司に時間をいただき転職する意向を伝えた。当然答えは「NO」だった。無理もない、この時の私のクライアントは全部が誰かのクレームで炎上し誰も対応できないややこしい企業群しかなかったからだ。(しかも取引額も大きいので新上司としても無下にもできない)

対話に対話を重ねた上で、会社からは後任を早急に準備するのとその子を私が育てるという約束で退職時期を来年3月に決定。後任として3名追加されて私のクライアントは3名の性格を元に私が割り振りをしていき、約1年かかって無事に全クライアントをトラブルなく引継ぎして安心して転職をした。(転職後も後輩達からは相談の電話が入っていた事は内緒)

年末くらいからは同時に転職活動も始めていた。この仕事で色々な会社を支援したことで採用や教育という部分にはかなり興味があって、生涯関わっていてもいいなと思っていたところで「人事」という選択肢が濃厚になっていた。

人事職の求人も色々あった。詳細は割愛するが、内定をもらって最後に検討した2社は雇用条件こそ同じだが環境やミッションが両極端だった。Aはとある業界のトップシェア企業であり、完全に整っている環境でひたすら採用計画を追い続ける事がミッション。Bはそこそこ大きい会社だが人事組織がカオス状態でその組織の立ち上げメンバーとして加わり、全てをゼロから作っていく事がミッション。妻に念の為に聞いたが「心は決まっているんでしょ?Bじゃないの?」と心の内がバレており、内定を承諾した。

最終章:現在の仕事とまとめ

前章にも書いた通り、現在は人事として組織の立ち上げをしている。人材経験があるのは私だけでそれ以外の上司や仲間は全員素人という思ったよりもハードなスタートだった。

今も採用組織の立ち上げリーダーとして横断的に色々とやっているが、人材営業から人事になった際に一番驚いたことは業務の幅の広さと人事の方の忙しさ。採用業務の手間の多さなどなどだ。(前職に戻れば更なる提案の幅は広くなっている自信がある)

企業規模こそ大きくてもオーナー企業ということもあり、かなりのトップダウン気質で管理部門はかなり振り回されているが、私は全然動じない。ついには同僚から異名として【狂人メンタル】と言われるようにまでなってきた。自他ともに認める【狂人メンタル】がここに生まれたというわけです。

思ったよりも全体的に長くなってしまったので、現職の部分は別の記事で書こうかなと思う。私は2021年12月で33歳になる年齢の若造だが、20代は物理的に普通の人が働いている時間の倍で仕事をしてきた自負があり、それに伴う色々な出来事や理不尽にも振り回されてきた分、その経験は全て自分の今の糧になっている自信がある。

この経験が誰かの役に少しでも立てるのではないかと思い、発信活動に挑戦しようと考えております。これからも定期的にnoteを更新するので読んでいただけるとありがたいです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集