わかる人と一生わからない人

こんなタイトルをつけるとなんだか差別的な響きがするが、これはわかってもらえないマイノリティー側からの言葉で見下す等の意味はない。

実は今、メーカーフェアという、展示でもなくフリマでもなくフェスでもないが、同時にそのどれでもある、という変わったイベントの手伝いをしている。


出展者は皆、自らの発明品を展示し、販売したりプレゼンしたりして、来場者や出展者仲間にその発明品の魅力を共有すべくコミュニケーションをとる。
トークやライブも組み込まれていて、出展者はいろいろな形で自慢の発明品をシェアできる。

それら発明品は、一見するとなぜこれを作ったのかわからない、というものが多い。

殆どの場合、なぜこれを作ろうと思ったんですか?という事からコミュニケーションが始まる。皆それを楽しみに会話をする。 

しかし、中には伝えたとしても、こんなにガラクタを集めて〜、とか、最終的に処分に困るでしょ、といった反応もある。
1番すごいのは、伝えても伝えても実用的ではないとか無意味という理由で、全く理解ができずけなす人である。そういう人は、気にしないが1番である。

これは会社の新商品プレゼンではないのだから。。

無用の用、という言葉がある。

役に立たないと思われているものが、実際にはとても約にたっているということわざであるが、メーカーフェアはおそらくそれをとても大事にする。

役に立つ、立たない というものさしでは測ることができない、作ってみたいという衝動、作ることができたという感動と、それを自慢したいという気持ち、そしてもっとスゴイものを作って発展させたいという好奇心。

それはきっと、文化というものが発生する最初の個人レベルの動きだと思う。

以前読んだ記事で、文化を持たないアメリカ民族があってリサーチをした人類学者の話があった。
その社会ではルールがしっかりとしていて、子供が社会に出て働き始めるのがとても早いコミュニティであったらしい。

むしろ早く労働力になるように早く子供を育てることに焦点が置かれており、娯楽が全くなかったそうだ。

リサーチに赴いた人類学者たちはことごとく精神を患って帰ってきたとのこと。そのリサーチは遊びの大切さのリサーチに繋がり、ホイシンガのホモルーデンスの概念につながっていくそうだ。

題名で述べた言葉は、近くの出展者の方とお話している中で出てきた言葉である。

くだらないように見えるものをオモシロイ!と思える人は、その娯楽を楽しむ精神的余裕がある。
一方で、それを楽しめない人は、根本的に娯楽が悪である、とかそういった刷り込みをされた真面目な人間が多いように思う。(母がそうである)

これはわりと大人では二極化している気がする。
遊びは悪ではない。文化を育む肥沃な土壌である。

どちらを否定したいというわけではないが、そういった、自分でも作れるかも、という挑戦は私達に気づきを与える。
この世の全てはお金で消費者として得るものじゃなく、生産者として得る事ができるものばかりなのだ。

二元論者ではないが、人の発明品に興味を抱き、共有して楽しむ。

中学生のころ、お互いに描いた漫画を皆でシェアして楽しんでいたのを思い出す。それと同時に、漫画オタクが気持ち悪いという異常な視線もあったことを思い出す。

作りたいという衝動は、どんなものでも見下されるものじゃなくて、人としてかなり高等で文化的な活動ではないかと思うのです。

おわり
ukai

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