かんたんな原理・原則から考える政治経済
わたしたちは、生きようとする。到来したVUCAの時代を生き抜いていこうと考えたときに、私たちはそんな極めて自明のような原理・原則から、まずは物事を考えていかなければならない。
「何をバカな」と言われるかもしれないが、今わたしたちが直面しているのは、そういう類のものだと思う。断言するが、この現実から目を背ける者から順に死んでいく。
生きようとする。生きるためには何が必要か。少なくとも、女性や外国人に対する参政権などではない。あるいは、セクシュアルマイノリティに対するきめ細やかな配慮でもない。生活困窮者への福祉サービスなどではないことはより自明だろう。そんなものは、何千年という時間の先に初めて手に入るぜいたく品に過ぎない。
生きるためには何が必要か。食べることである。食べることであり、食べるために必要なことができるかどうか。食べられなくなったものから死んでいく。これは極めて自然的なことであり、摂理である。人間が動物である以上は逆らいようがない。
*「政治経済」と銘打ってこうした言説から始まることをバカバカしく思うのであれば、ひとまずそうしたポリティカルなことは忘れて、「明日、無人島に連れていかれるとしたらどうやって生きていこうか?」という視点から読んでもらえたらよい。あるいは、そんな現実から目を背けて順番に死んでいくことも立派な選択肢の一つになるだろう。
太古の昔から、おそらくそうだったであろう。わたしたちは、食べて生きる。これは自明だ。であれば次に、「何を食べるか」を考えなくてはならない。道端に生えている草を食べたとして、わたしたちは誰もが岡本信人になれるわけではないので、生き残れるかどうかは分からない。現代の知恵を多少つけているなら、それで生き残れない可能性のほうが明らかに高いことはよくわかる。わかってもらわなければ困る。
ではどうするだろうか。周りに目を向けると、犬や猫、鳥が歩いている。わたしたちは、彼らを殺して、食べなければならない。たとえどんなに美味しくなかったとしても、それを食べて生きていくことができるのならば、そうするしかない。運がよければ豚や羊が歩いていて、比較的美味しい肉にありつけるかもしれないが、よほどの幸運でもない限り、そうしたものにはまず出会えない。そして恐ろしいことに、彼らを殺してそのまま食べたところで、何かの病にかかり、また死んでいく。彼らの生肉には毒を持った虫が潜んでいるからである。食べるためには、加熱調理が必要だ。そして火を探す旅が始まる。
Minecraftをプレイしたことがあるなら、このあたりの感覚には覚えがあるはずだ。誰もが、肉を探し求めて歩いているうちに謎の崖から落ちて死んだことがあるだろう。人間とはそういうものだ。そして、Minecraftと現実世界が異なるのは、人間はいちど死んだらおしまいだということだ。
幸運にも食べるものに恵まれ、火も手に入れて、わたしたちはとりあえず死ぬことは免れた。だが、それでも火の始末を怠ったことで焼け死ぬかもしれない。それもまた人生。死のにおいは恐ろしいほどにそこら中に満ちあふれている。そのことに気づかなければ、VUCAの時代は生き残れない。
さて、どんな人間なら生き残る確率が上がっていくだろうか。答えは簡単。力と知恵の両方を存分に兼ね備えた者か、あまりにも幸運すぎる者である。ここでいう力とは肉体的な強さであり、知恵とは注意深さと表現すればよいだろうか。犬の噛みつきにも難なく耐える。火の始末も常に怠らない。それで初めて人は生きていける。そうでなければ死ぬだけだ。繁殖のことを考えている余裕など、この時点では少なくともほとんどない。
"力と知恵の両方を存分に兼ね備える"確率を上げるためにはどうすればいいか。一つの大事なことは、男性として生まれることだろう。事実として、女性に生まれた場合、男性ほど力に恵まれない確率が高くなる。もちろん例外もある。ここでは原理・原則の話をしている。わたしたちの友人の中に、一般的な男性よりも握力に恵まれている女性が何人いるか想像するとよい。いまやそんな世の中ではないのかもしれないが。もちろん女性に生まれたとしても、力に恵まれる可能性はあるし、それに比べれば十分な知恵を生まれ持つ可能性はある。それによって生き残る機会を得ることもできるだろう。
ところで、それらを生まれ持ってくるためにはどうすればよいだろうか。それは分からない。運に委ねるしかない。"力も知恵も持って"生まれてくること、それしかない。なお当たり前だが、"力も知恵も持って"生まれたとしても、明日そこに生えている大木が倒れてくれば当然死ぬ。わたしたちの幸運を妬んだ不運な隣人が、わたしたちが無防備なところに奇襲をかけてくることもあるだろう。"力"も"知恵"も、生きるための十分条件ではあるが、決して必要条件ではない。
*わたしたちにはそうした事実について反論したくなる気持ちが当然湧くことだろうが、そんな気持ちのことなど知ったことではない。力も知恵も持って生まれたほうが生き残る確率は上がる。それだけでしかない。
鳥を殺して肉を手に入れたとしても、鳥がいなくなれば肉は手に入らなくなり、死ぬ。木を燃やして火を手に入れたとしても、木がなくなれば火は手に入らなくなり、死ぬ。隣に知恵のある者が暮らしていれば分け前をもらうことができるかもしれないが、十中八九それは叶わない。彼もまた生きることで精一杯だからである。隣人を生かすために自分が死ぬことを選ぶということはない。したがって、手に入れるためには隣人を殺すことになる。しかしながら、どう頑張っても隣人のほうが力も知恵も備えているので、まずもってわたしたちは返り討ちに遭うことになるだろう。とてつもない幸運により隣人のそれを奪い取ることができて一時的に豊かな肉と火を得たところで、しかし1か月もすればそれらは無くなってしまう。少しでも知恵があれば、隣人を奴隷にすることもできたろうが、残念ながら殺してしまったので、彼の知恵はもう二度と世に存在することはない。そして1年後、再び何も手に入らない状態がやってきて、わたしたちは死ぬ。
死ねばすべてが終わる。殺してしまった隣人はこの1か月何もしゃべらない。彼は別の世界に旅立ってそこで幸福のもとに過ごしているのかもしれないが、少なくともわたしたちがそれを確かめる術はない。したがって、難しいことはよくわからないが、兎にも角にも生きるしかない。しかし「生きるしかない」とは言っても、力も知恵も持って生まれなければ、残念ながら死ぬ運命が待っている。「そうではない」と言いたいならば、まず自分一人の力で、武器も何もない状態で、目の前にいる犬を殺し、その肉を食べようとしてみると良い。おそらくできないに違いない。できないなら、残念ながら死ぬしかない。力も知恵もなく生まれてしまった不運な者でも生きることができるということを証明できるのなら、わたしたちは間違いなく世界を究極の幸福に導くことができる。そしてその後、世界を終わらせることになるだろう。
もちろんそうした現実を否定し、"別の世界"を確かめに行くために自ら死ぬというのも立派な一つの選択肢だろう。おそらく誰もそれを咎めようとはしないし、止めることもないはずだ。なぜなら、一人が死ぬことで明日の肉や火がより多く手に入るようになるからだ。奪い取る労力をかけなくてすむようになるのだから、隣人たちはわたしたちの死を悲しむどころかむしろ喜ぶに違いない。そして、わたしたちの死を喜ぶ隣人たちも、近いうちに皆死んでいく。
わたしたちが「三人寄れば文殊の知恵」という言葉を生み出すまでには、まだ気の遠くなるような時間を積み重ねる必要がある。だが、どんな時代だろうが、その言葉を生み出したとて腹が膨れるわけではない。その原理・原則に、私たちはまず向き合うべきだ。
それでも、もう残された時間はあまりない。