『宝石の国』最終話を読んだよ。鬱マンガじゃなかったって事を言っておきたいよ。
(蛙๑╹ω╹๑ )<終わっちゃったぁぁぁ〜〜〜〜〜〜!!!!!!
❑アフタヌーン本誌表紙:2024年6月号
連載開始から約12年、アニメ1クール放送、数度の休載を経て。
とうとう完結してしまった……。
❑アフタヌーン本誌表紙:2012年12月号
(蛙๑╹ω╹๑ )<ですので、『宝石の国』について、感想も含めた、何か関連したものや、何か関連していないものを書いてみようと、そう思います。
(蛙๑╹ω╹๑ )<感想……。感想、か……。
難しい。とても。
良かったね。とも言えるし、
何という終わり方なんだ、どうしてこうなった。とも言えるし、
面白かったねぇ。とも言えるし、
どんどん難解になり、まるで禅問答の様だ。とも言える。
そして恐らくそれら全てが適当で、恐らく正の感想も負の感想も決して間違っていないのだろうと思う。
「思う」というかそう「感じる」
(蛙๑╹ω╹๑ )<『宝石の国』には様々な考察があって、まあ、世界観と言うか「エッセンス」としての『仏教』や『この世とあの世』とか『来世』とか『輪廻』とか『不浄』とか『無常』とかが在るし詰まっているのだと読めば感じる事ができるのだけれど。
『宝石の国』という漫画が108話で終わったことだとか、
市川春子氏曰く「予定通り終わらせることができてよかったです」
との事だったり。
偶然か運命か、市川氏の計略か、
2024年の4月(今月)には薄荷色の『ポンス・ブルック彗星』が70年ぶりに観測できたりだとか。
そのフォスフォフィライトによく似た美しい彗星が、観測された2024/4/3-4は珍しく3.5等級の明るさになり、3.5はフォスフォフィライトのモース硬度と同じであったり。
私たちがその彗星を生きている間に観る事ができるのは恐らく今年だけであろう、観測の唯一のチャンスだったり。
(蛙๑╹ω╹๑ )<本来ならもっと早くに完結できるハズだった『宝石の国』が、
長期(+短期の)休載を経て、それでもなお市川氏曰く「予定通り終わることができてよかった」
という事だったり。
(蛙๑╹ω╹๑ )<なんか、もう、市川春子自身が御仏なのでは……?
と。
市川春子、どういう思考で生きている?
何食べたら『宝石の国』の様なストーリーと描写を生み出せる?
休載期間にPS5でゲーム楽しんでたってマジ?(完全なデマではない)
ちなみに、PS5当選コメントの九十五話の2020年12月から完結の百八話までに約3年半の月日が経っています笑
その間も市川氏は色んな仕事をしていらして。
(蛙๑╹ω╹๑ )<そんなこんなで、連載中だった『宝石の国』はゆっくり、ゆっくりと物語が進んでいった訳です。
まるで本編中で流れる途方もない時間を私たち読者に体感させるが如く。
まるで力と記憶を一万年かけて引き継いだフォスフォフィライトの様に。
❑何故、『宝石の国』は " 鬱漫画 " と呼ばれたのか?
(蛙๑╹ω╹๑ )<さて。ここから、タイトルにもあるように、「宝石の国は鬱漫画じゃなかったよ」って事について、漫画 第一話と最終盤 〜百八話をメインの引き合いにして、掘り下げて考えてみようと思う。
モルガナイト「フォス! いるんだろ! フォス!」
百八話でもフォスは草原のような場所にいる。
「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」
と言ってもフォスがフォスの姿をしている訳がない(ヒトの部分が残っていない)から、この姿はフォス自身でも石たちでもない、第三者、私たち読者(観測者)視点と考える事もできる。
もしくは、物語の創造主である市川春子氏の視点。
そう解釈すると、市川春子氏から読者へ向けたメッセージと考える事もできる。
どうだろう?
全く無いとは言い切れないけれど、物語(フィクション)のメッセージ性に重きをおいた使い方を市川春子氏はしないような気もする。
であれば、創造主から作品への想いや願いと考える方が近しい気がする。
ルチル「砕け散ってもある程度集まりさえすれば傷口をつなぎ生き返らせるのです──。しかしこの性質のために私たちは何事も諦められないのですけれど…」
これは、作品そのものの根幹ではなかっただろうか。
フォスを筆頭に、宝石たち、アドミラビリス族、月人、金剛、エンマ、兄機、石たち。
生命としての命の長さに関係なく、目的や願いを諦められない者たちの物語ではなかったか。
最終的にほとんどの者が目的や願いを達成したと言える。
そして、この根幹の観念があったからこそ、フォスフォフィライトは失敗やすれ違いを繰り返したのではなかったか。
『宝石の国』が鬱漫画、鬱展開が続くと評されてきた理由がここに集約しているように感じる。
しかし、唯一、残酷な未来を課せられたと思ったフォスでさえ、最終的には兄機や石たちによって救われ、『人間』と分かれた。
では、フォスフォフィライトは、一体何から救われたのだろう?
心理学において、
人間を最も不幸にするのは『孤独』だと言う。
人間を最も幸福にするのは『友達』だと言う。
フォスフォフィライトを含めた宝石たちには「人間」が宿っていた(インクルージョンとして)。
金剛から力と記憶を引き継ぎ神となったフォスフォフィライトは、月人となったかつての仲間たちに祈り、送り、最後に自身の願いに気が付いた。
フォス「僕の味方はおまえだけだよ」
この台詞は何も書かれていない画板に対して、自分の孤独を嘆いているのだけれど、今にして思えば身内である宝石たちではなく、無機物である画板にだけ孤独を独白している。
別に、第一話のこの言葉が遥か未来に出会う兄機や石たち、『人間』を含まない者たちへの伏線になってた訳では無いだろう。
しかしある意味では、この時点でフォスフォフィライトの願いを明確に示唆していたと言うことができる。
なぜなら、フォスフォフィライトには孤独を共有する仲間がおらず、その後親しくなっていったシンシャ、アンタークチサイト、カンゴーム(ゴースト・クォーツ)、いずれの宝石たちも失い、離れている。
(個人的にカンゴームとの離別が特に苦しかった)
フォスフォフィライトは神になって、これまで周囲にいた者全員に祈り消滅させて、ただ一人になって初めて、自らが孤独だったことを知った。
繰り返す失敗より、仲間とのすれ違いよりも、
自分が本当に愛されていなかった事。
愛されようとしたが報われることがなかった事。
そうしているうちに、自分以外のすべてはフォスフォフィライトを置いて無くなってしまった事。
本当の『孤独』な存在になった事。
この過程を、12年という連載期間でじっくりと、丁寧に描いた事。
これこそ、『宝石の国』が鬱漫画と呼ばれる所以だったのではないかと思います。
(蛙๑╹ω╹๑ )<けれど、そうではなかったんですよね。確かに、物語の展開は鬱々としていたワケですが、
失ったからこそ本当に欲しかった存在と出会い、
失ったからこそ後悔にも気付けた。
市川春子氏曰く、
「予定通り終わらせることができてよかったです」
誰かを傷付けず、誰も蔑ろにしない。
そんな存在を得て、
フォスフォフィライトは、自分の『仕事』を終えた。
そして兄機も。
最期の役割を全うした。
フォスフォフィライトは決して孤独ではなかったという事。
月人と、月人になった宝石、アドミラビリスたち、そして兄機は知っていました。
多くの仲間に想われ、愛されていたという事。
フォスフォフィライトの『人間』だった部分は、最期まで知らなかったかもしれないけれど。
今、フォスフォフィライトと石たちは楽園で暮らす。
純粋で、無垢なフォスフォフィライト。
「だれかのきぶんをあかるくしてるといいな」
やはり、このメッセージは市川春子氏から、フォスフォフィライトへの祈りなのではなかろうか。
❑最後に。
第一の扉絵で描かれた20人の宝石たちと金剛先生(日輪)と、百八話の最後のページに描かれた瞬く星✨の数と台詞枠の大きな◯が一致しており、意図して描かれている事がわかる。
プロの漫画家、ましてや市川春子が、てきとうに輝く星を描く訳がないのだから。
第一話のタイトルは『フォスフォフィライト』
第百八話のタイトルは『宝石の国』
関連性を見出さない方が不自然である。
(蛙๑;ω;๑ )<あぁ……本当に良い漫画を読んだ。
❑鏡面の波(アニメオープニング)
(蛙๑;ω;๑ )<ねぇ…無理……。
もう宝石の国読めないの……?
アニメ2期は……?
orangeならきっと、きっとやってくれるよね?
❑有限会社オレンジ代表 井野元英二さんインタビュー
きっと、井野元さんならやってくれるって信じてる。
京極尚彦監督なら、長崎行男音響監督なら、きっと最高の2期を創ってくれるって、俺信じてる!!!!!!
(蛙๑;ω;๑ )<みんなも、もう一度宝石の国アニメ観たいよね?
という感じで今回の『宝石の国』最終話を読んでのnoteは以上です。
ああ、コミックス最終巻&特装版の発売も楽しみだなあ。
2冊ずつ買わなくちゃ。
毎度長々お付き合いありがとうございます。
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それではまたᐕ)ノシ
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