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今、映画は過剰になりすぎている

宮崎駿『本へのとびら』を読んでいます。

今、映画は過剰になりすぎているのです
色彩、効果音、セリフ、音楽、どれもがひしめいて、前から脇から後ろからと音がうずまき、とび出したり、振動したりしています。

僕らは引きかえしたらいいんじゃないかと疑問を持ち始めていたのですが、そのはじめての試みが「たからさがし」でした。映画は三月十一日の地震より先にできました。そして、この減らしていく方向に自信を持ちました。

世間がどんなににぎやかにやっていても、僕らはおだやかな落ち着いた方向へ舵をきるつもりです。
(P.160)

宮崎さんは映画について語っていらっしゃいますが、私はこれを読んで、現代人の生活について考えました。

今はスマホやPCが当たり前にあって、動画や音楽に指先ひとつでアクセスできる時代です。また、街にも、広告の映像や音楽なんかがあふれています。
そして私たちは、スマホが表示してくれる情報を消費するのに忙しい。

映画を例にとると、映像技術や音響技術の進歩もあり、どんどん派手で、綺麗で、過剰になっています。映画以外もそうです。
その"過剰さ"に慣れてしまうとどうなるか。
もっと過剰で、刺激の強いものを求めるようになっていくのではないでしょうか。

私たちは過剰な映像、音楽に晒されていて。
私たちの目や耳は、その刺激の強さに慣れていく。
そこに怖さを感じます。
ちょっとやそっとの刺激では満足できない身体になっていくのです。

濃い味付けに慣れると、薄い味付けに物足りなさを感じるようになります。それと似たようなことが起きるんじゃないか。
感動、満足のハードルがどんどん上がっていく


そうするとどうなるか。
日常の中にあるもの、例えば、歩いている時に見かける草木や、聞こえてくる鳥の声なんかに、間違っても感動できなくなるんじゃないか、そんなことを考えました。

刺激の強さに慣れると、どうしても、噛み締める、味わうといったことを忘れてしまいがちです。味覚に限った話ではなく。私はそれが怖い。

道に生えている草木でも、今手に持っているボールペンでも、乗っている電車でも、それらをよく観察してみたり、耳をすませたり、匂いをかいでみたりすれば、そこに楽しさや美しさ、感動を見出せるはずなんです。

わざわざ人が作った動画や音楽を見たり聞いたりしなくても、家の中や、ちょっと外に出た先に、驚きや感動は存在しているはずで、私たちがそれを感じとる心を失ってしまっているだけだと思うのです。

私たちが映画館やYouTube、Netflixなんかで見る動画の多くは、たしかに刺激的で、面白い。
でも、それらの多くは”過剰さ”を孕んでいることに気づかないといけないのではないかと思います。

”過剰なもの”の中毒になるのではなくて、日々の営みや、自然の中に感動を見出す心を持ちたいと思います。
過剰で刺激的な映像や音楽に慣れてしまっているので、最初は少し物足りなさを感じるかもしれませんね。

そんなことを考えました。

今日はウチにある観葉植物を5分ぐらい時間をかけて眺めてみましたが、なかなかにいい時間でした。

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