古びた故郷の地図に思い出をのせて
久しぶりに歩いた大阪の街は、懐かしさと目新しさが入り混じる景色をしていた。
ほぼ1年ぶりに最寄り駅に着くや否や、昔ながらのアーケード街が広がる駅前の一画は更地へと変わっていて。一瞬、別の駅と間違えたかと思った。
そして、これまで真っ白なフェンスで覆われていた梅田の北側は、再開発によって優美な芝生エリアが広がり、来年の頭には巨大な商業ビルのオープンを控えている。
そんな大きな変化に見惚れていると、次第に細やかな変化も目につくようになった、
飲食店やコンビニ、コインランドリー。以前は何があったか思い出せないのに、なぜか新しい何かに変わったことだけはわかってしまう。
長い帰省期間だったので、いつもは訪れない緑地公園をランニングをしていると、道をはさんだ向かいの通りにコンビニの明かりが見えた。
自分の記憶には存在しないコンビニだった。
子どものときは見慣れていたはずの場所に、見慣れないコンビニが建っている。何事もなかったかのように、ぼやっとした光を放っている。
まるで昔はよく使っていた古びた地図の上から、紙質の違うコピー用紙の切れ端を貼りつけられていくみたいに、ぼんやりした記憶が上書きされて、重なった部分はもう思い出せない。
ほんのささいな出来事なのに、心がぐらつく気がした。
それでも変わらない景色は本当に変わらない。
家の近くにある公園の遊具。小学校のフェンスの隙間から覗く百葉箱。よく友だちと通っていた駄菓子屋。お気に入りのみたらし団子屋さん。
どこかホッとする気持ちもあるけれど、次に帰ってきたときにそこにあるとは限らない。ただ、ぜんぶがぜんぶ悪いことだとも思わない。
心がぐらつく瞬間も、ずっと見慣れた景色の中にいると味わえないだろう情動で、変化に気づいたからこそ生まれたものだった。
使い古された地図に、塗り変わった景色を貼りつけていく。パッチワークのように記憶と景色を縫いつけて、新しい地図を描いていく。
今回の帰省でたくさんの人と出会った。数年ぶりに逢った友人も、ずっと仲の良い友人も、出会ってみるとあの頃とほとんど変わらない。いい意味で。
変わっていく故郷の景色に一抹の寂しさはあるけれど、思い出が空っぽになるわけではなくて、いつでも地図を広げれば思い出の場所を辿っていける。
ここは生まれ育った街だから。
それにしても、たった1年でこれだけ感傷的になるのなら、数年以上ぶりに帰ったときはどうなってしまうんだろうか。すぐに年末も帰るのに。