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私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ

東京都現代美術館へ行ってきた。
目的は、企画展「MOTアニュアル2022  私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」。

数日前、Twitterで知った企画展。
私が見たTwitterの投稿には、展示に関する詳しい記述は無かったが、とにかく展覧会のタイトルに心動かされて、休日を手に入れてすぐに飛んで来た。どんな展示なのか。私が日頃正しいと信じてやっていることも、誰かの悲しみや憎しみに繋がっていることがあるかもしれない。早く見たい。はやる気持ちが抑えられなかった。

行ってみると、4人のアーティストによるそれぞれの展示室を、順番に巡ってゆく展覧会だった。

私が最も心に残ったのは、工藤春香氏によって手掛けられた展示室。

(以下、展示内容に触れますので、知らずにこれから見に行かれたい方は回れ右を。)

◎◎◎

展示室の中央に、びっしりと文字の書かれた大きな布が吊るされていた。
よく見ると、それは1917年から2022年までの主に旧優生保護法を中心とした障害に関する政策・制度・法律等をまとめた年表」と、1878年から2022年までの障害当事者運動に関してまとめた年表」のふたつだった。

工藤春香氏自身が、まとめられたのだろう。
かなり細かく、詳しく、膨大な情報が網羅されていた。

旧優生保護法に関する年表。
不良な遺伝子を残さない。不幸な子どもをつくらない。強制避妊。精神病患者の扱いについて。

当時の政治家たちが口にして、実行したのであろう残酷な言葉が並んでいた。地獄だった。

「悪質な遺伝子」とされた人々のことを、完全に見下していないと出てこないであろう言葉だった。それも、これはきっと公文書か、実際の政治家の発言から引用された言葉だ。公にこんなことを言っても通ってしまうほど、「悪質な遺伝子」とされた彼らは人間扱いされていなかった。

いまは健康で、地位も名誉も財産もあるひとだって、いつ病気になるかわからないのに。こんなにも強いことが言えて、国家規模で実行できてしまうのは、自身たちはまぎれもなく優位な存在だという揺るぎない自信があったのだろう。
そして、彼らにとって、病気や障害のある人を排除し、不妊にさせ、「優良な遺伝子」で国を構成してゆくことは「正しい」ことだったのだろう。

完全に地獄だけれど、これは遠い昔のおとぎ話ではない。ほんの数十年前の、ここ日本の話だった。年表の数字が目に入るたび悪寒がした。この地獄のような世の中を作っていた人たちは、まだまだお元気でいらっしゃるであろうくらい、最近のこと。
こんな恐ろしい社会の、体温がまだ、残っていた。

◎◎◎

1999年。
東京都の石原慎太郎知事が、府中療育センターを視察し、その感想として
「ああいう人ってのは人格あるのかね」と発言。

展示室のど真ん中で涙が出た。
どうしてそんなことが言えるのか。
それも、いま視察してきたばかりで、彼らに会ってきたばかりで、一体なにを見てきたのか。

そんなことを平気で公に放てる人間が、社会を動かす権限を握っているなんて、信じられなかった。

許せない。許さなくていいはずだ。
でも、これも発言した本人にとっては「正しさ」なのだ。

ふと見ると、前にいたお兄さんもハンカチで目を拭っていた。

◎◎◎

あなたの見ている風景を私は見ることができない。
私の見ている風景をあなたは見ることができない。

展示室に置かれていたリーフレットに書かれた、工藤春香氏の言葉。

本当に、その通りだ。

その人の置かれた状況、これまでの人生、バックグラウンド、などなどによって、見える風景はすべて異なってくる。

人それぞれによっての、物の見え方の差異が極端になれば、旧優生保護法のようなものが生まれてしまうのかもしれない。それを正しいとする物の見え方だって、人の数だけ思考があるのならば、無くすことはできないのかもしれない。

◎◎◎

優生思想ほど振り切れたものではなくても、私が良かれと思いながら誰かを苦しめているんじゃないかと思うことはたくさんある。

毎朝出勤して、おはようございますという挨拶、笑顔でしていいのか、真面目なトーンであるべきのか。

感謝の意を伝えたいからと華やかなギフトを選んでしまったけれど、負担に思わせることはないだろうか。

政治や社会問題に関する発言をついTwitterでしてしまうこともあるけれど、Twitterのタイムラインはただ楽しいだけの場所にするべきなのか、、、etc.

なにが正しいのかなんて、考えはじめたらきりがない。

大学生だった頃、何が真実なのか、いくら考えても答えの出ない世の中と、それなのに乱暴に正解を決めてしまおうとする世間が本当にストレスだった。

就職活動のせいかもしれない。
やれ大企業だ、正社員だ、楽して稼ぐのが勝ち組だ、なぜなら資本主義社会なのだから、、、

本当にそうなのだろうか?

そんなときに救われたのが、作家の小川洋子氏の言葉だった。

「現実世界も小説世界も、完全に説明がつく明快さだけでできていない。それを拒絶も否定もせず、曖昧さに耐えること」
2019年、三省堂池袋店でのトークショーより

結局、なにが正しいのかなんて決められない。
だって、みんな見ている風景が違うのだから、

「正しい」ものに囲まれた日々を願っていたけれど、そんなものは叶わない。

曖昧さに耐えること、これは正解のない日々を生き抜いていくための術であるし、そうしながらも、自分自身を守るために、私の「正しさ」を形にする術も身につけたい。

私の考える「正しさ」をきちんと形にしたい、それと同時に、そのとき悲しみや憎しみを持ってしまうかもしれない人たちの存在に思いを馳せることを忘れないでおきたい。
そう決意した展覧会だった。

どんなに自分が恵まれていても、幸せでも、楽しくても、今日見たものは生涯忘れてはならない、無かったことにしてはいけない。

2022年10月16日(日)まで開催されているそうなので、皆さま是非、ごらんになってください。

「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」。

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