文フリ戦利品感想 遠藤ヒツジ(羊目舎)『爪先に異界』(Pさん)

 ツイートで、文学フリマで手に入れた冊子について解説をしていったのですが、遠藤ヒツジさん(サークル「羊目舎」)の『爪先に異界』という冊子の感想を書いていたら、ツイートの下書きが消えやがって、たまらなく悔しくなったのでこちらのほうでしっかり下書きを管理しながら書き直すことにしました。
 この冊子は短編集で、文庫本サイズ。装丁や組版は読みやすく、表紙が凝っていてオシャレ。願わくば、柱(それぞれの題名が上とか下に常に表示されている部分)が欲しかった。まあ、サイズ的に詰まってしまうのかもしれないのでこれで良いのかもしれませんが。

一作目「シロナガスクジラのいない夜」

 一人称、二人称、三人称、そして舞台という四者の存在を、たった何行かではっきりさせる力量はやはり継続のなせる技なのでしょうか。すばらしい。
 分かりやすいメタファーについて語りながら、その全体がショートメッセージのようなサイズに切り取られている。yoluと名指されている何かについて話している。確か、こういった系列の作品が、この人の中にあった気がする。

二作目「地獄を天国として」

 名称を抽象化することによって逆に増す存在感もあるのだと思った。自分でも思いついてやってみたことのあるメタ構造が現れるけれども、家族とディスコミュニケーションという重い題材の方が、本作の雰囲気を支配している。やはりそこに、スマートスピーカーという、私達を覆って自分自身は何も話さないことによって私達を多弁にさせる技術が、軽やかに覆い被さっているようだ。

三作目「林の中で燃えている車を見ている人」

 あとからじゃ何とでも言えるが、この作品に似た構造も、僕は書いたことがある。けれども、やはり舞台の組み立ての力が違う。語りと人称の強さなのだろう。

四作目「かつてのこと」

 季節の冷凍総菜を出す居酒屋と地方の名産妖怪のオーバーラップする話。普通に読めば異性愛者の恋人同士なのかもしれない囲と嘗という主体だが、どこか同性愛的だと思ったのは、口唇的あるいは糞尿的享楽が余剰として溢れているからだろうか。

五作目「顔の鏡」

 これは恐らくだが、詩や言葉が小説や生活に侵食する様を描いているのだろう。はじめに「無尽」「横」「縦」という三つの章が、順番に交錯する。他人がふと相貌を曖昧にし、我が相貌かと思うくらい似通って歪んだ表情を見せるという、題名にもある「顔の鏡」というテーマはそれではどういうことになるのかといえば、おそらく文字通り他人がふと我が相貌かと思えるような鏡の面をこちらに見せる瞬間のことを指してそう言っているのだろう。それとも、章と章の間を浸透圧によって変質しながら通り抜けようとする言葉とその意味の、天使的な僅かな反射角の集合について言っているのだろうか。

 以上、友人であるこの著者がこの感想を読んで少しでも笑ってくれれば幸いである。

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