うさぎさんの「右腕の筋肉の作り方」について(Pさん)

 崩れる本棚のPさんです。
 文学フリマで入手した本の書評を二回連続でしていましたが、それから途絶えてしまったので、リハビリがてらにサークル内の小説を読んだ感想についてなど、書いていきたいと思います。
 余談ですが、今日ブルートゥーススピーカーを買いました。ブルートゥーススピーカーと言って良いのかはわからない。売り場には確かに「ブルートゥーススピーカー」とジャンルが天井から吊されていたが、個々の物が実際にブルートゥーススピーカーそのものである保証はない。しかしそれは確かにブルートゥースで接続して音声を鳴らすスピーカーであり、自分には奇異なことに思えるけれどもイヤフォンジャックその他、コードを介して音声の電圧変化を伝える部分が全くない。USB接続のジャックならあるのだが、そこから音声を伝えることが出来るのかどうかはわからない。恐らく出来ない。それは電源の確保としてのみ開かれている。電源を入れ、音量を調整し、ブルートゥースに接続する為のボタンしかない。つまり、ブルートゥース対応の端末に接続されたら、それの音声を再生するという以外に機能を持たないのである。
 改めて振り返ると奇異であるから以上のことを書いたけれども、それを補ってあまりあるほどの音の良さであった。握り拳ほどの大きさであるにもかかわらず同じサイズのスピーカーで想像するラジカセの音などとは比べものにならなかった。ブンブンと低音が鳴るし実際に震えている。音が共鳴する空間すらいらない。どうなっているのかわからない。
 かくして、私はそれをその辺に転がすなり自転車のフレームに括り付けるなりして適当な場所に置きながらにして、まるで映画館のスピーカーのように「ズゥゥゥン」というサウンド響き轟かす音曲をそこから流すことに成功するのである。再生する機械も、どこにあろうと自在である(スピーカーとの距離は最大9m)。
 この自由が人類に一体どんな恩恵をもたらすのであろうか? それを考えながらウサギノヴィッチ『右腕の筋肉の作り方』についての評を行う。

 今作はウサギノヴィッチ氏にとり何作目に当たるかカウントしていないがおそらく10作は超えているであろう番目に書かれたものであり、過去にいろいろな変遷があった。その傾向というのが「個人(ロマン)」↔「事物(ガジェット)」、人間的↔言語(フィクション)的、という軸を通して右や左に触れながら書かれたものであると思う。最初の対立軸に関していえば、けっこうおおかたは「個人(ロマン)」寄りであったように思うけれども前作の短編集「放送禁止」の作品などは、「事物(ガジェット)」寄りであったように思う。
 彼は人間を書きたいと思うにもかかわらず度が過ぎてドライな性格である為、男女が出て来てもまるで物みたいであり、縮小のされ方は違うけれども男女が出てくるなら男女がまるでミニチュア化されたマネキンが動くようであり、ひどく客観的に書かれている。
 しかしそのマネキン的あるいはミニチュア的な視点があることによって先程提示した人間的↔言語(フィクション)的、という軸でいう言語(フィクション)的な方の軸に大きく振れて、人間が異様な世界観、異様なシチュエーションに振り回されていくのである。
 その精華といえるのが、「崩れる本棚」設立当初にはじまり、数年掛けて諸作を積み重ねて完結した「久遠寺久平」シリーズである。
 その当時、同時期に佐々木敦が批評の中で用いていて柴崎友香とか山下澄人とか岡田利規とかのフィクションにおいての移人称(3人称が途中で1人称に移り変わるとかそういったやつ)を評して言っていた「パラフィクション」というものに影響を受けていたものと思う。
 当時は実際に日本文学のトレンドであった。それがどう解消されて、現在の姿はどうなっているとかは知らない。山下澄人は相変わらず素晴らしい小説を書いていて良い演劇を作っていて死人を弔う様子をツイッターでショーアップしたりしていた。彼が『ルンタ』みたいな小説を書きつつ現実の人間の生き死にについて一切イジらずに済ませるような架空の世界のことを書いたのではなく現実の人間の生き死にも同様に新しい弔い方を模索するという態度だと僕は感じた。孔子もそうしていたとか、荘子が書いていた。おじぎをしないとか大きい声で泣き叫んだとか叫ばないとかその程度だったけれども。
 まとめると、今振り返るとあれらの作家は移人称によってカテゴライズされるような作家では無かったしその後はいろんな切り口から小説を書いていたけれども当時はまるでその時面白い作家がこぞって移人称を利用して小説を書いていたかのような見方は出来たのだと思う。
 それらを僕らも利用したりしなかったりしたということだと思う。
「久遠寺久平」はそれを利用してとても構成的な作品群だった。「次は話がどうなるか」と期待するというよりも、「次はどういう手で来るんだろうか」と期待するような気持ちだったのを覚えている。
 それは同じ場で小説を書く仲間だったからかもしれない。
 昔話が過ぎたけれども、今回の作品は余り言語的なあるいはフィクションの仕組みをいじるといった工作は見られず、また男女の関係に完全に縛られるような作品でも無かった。ウサギさんは「久遠寺久平」を書き上げてしばらくして自分の手法などをあげつらう「ウサギ節」という呼称を嫌い、アンビヴァレンツながらも今までの自身を特徴付けるようなあらゆる手法から距離を取ろうと模索したりなどしていた。今作は、どちらかというと「事物(ガジェット)」への目配りがされた作品のように思う。「オナニーを四日していなかった」という、男女関係の断念ともいえるテーマから始まっているから、当然といえば当然なのかもしれない。
 印象的な「ガールズバー崩れのバー」、「カラオケ」の場面が出てくる。「ロビンソンの『スピッツ』」などという笑える場面も出てくる。それだけが、と言うわけでは無いけれども前作の「放送禁止」から、人物とシチュエーションを彩る数々の道具立てというものが、際だって見えてきているような気がする。
 カラオケを歌っていて誰も自分以外の歌を聞いてなどいやしないという、誰もが感じる感覚についてのリアリティ、僕も小説でカラオケの場面を書いたりしたけれども僕の場合は「(間奏 18分)」とかいった描写に甘んじていてそこまで突っ込んだ描写をすることが出来なかった。
 僕は彼がどう思うかにかかわらず第一印象から日本文学の古来の伝統である「私小説」に近づいたな、具体的には徳田秋声みたいな、という思いが現在に至るまである。
 たぶん、オナニーという男女関係の没交渉という惨めさが、日本文学の古来の伝統である私小説の変な惨めさというか垢抜けなさみたいなものを引き寄せてしまったんじゃないかと勝手に思っている。別に私小説らしさが悪い方向に行くとか言いたいのではない。
 私小説は、僕の考えで、かつものすごく簡単な言い方に直すことによって変形することを構わず言えば、「私はそのままを書いたけれどもそれをどう読むのか、これがなんなのかを判断するのは読み手に任せる」という態度があると思う。小説それ自体に変形や面白みがあると言うことよりも(読まれ方全体を指して言えばそうとも言えるのかも知れないが)、それが読まれ、いわば作者から読み手に渡されるときのその小説の位置みたいなものを探って読まなければならないみたいな面白みがあるということなのだと思っていた。
 この作品における「オナニー」とか、職場の飲みニュケーションにおいての一場面がエロい空想に繋がるというこの私的な現象について、一体作者のどこに置いて、自分のどこに運ばれるのだろうかという距離が、読むうちに浮動するみたいな読み心地を試されるというような小説で、それを楽しめばよい小説なのかなと、思った。
 乱れた意識の中でまとまらない考えについて綴ったものが以上になります。これを以て、『好奇心の本棚』に代えさせて頂きたいと思います。

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