文学フリマの書評 1 環原望「はじまりの時への幻視」

 文学フリマに関わった方々、お疲れ様でした。この場においても、特に「崩れる本棚」に足を運んでいただいた方々に関しては、特にぶ厚い御礼を申し上げたいと思います。
 今まで単に怠惰からほとんど行っていなかった文学フリマの、いわゆる「戦利品」の評というものをやろうかなと思い立ち、ここにやるものであります。
 話は逸れますが、コミケやコミティアなどの完全にごった返しの行列当たり前のプロい客を求められるイベントはともかくとして、文フリみたいなおとなしい客、おとなしい配布者、そこそこの入場者で構成されたイベントで易々と購入したものを「戦利品」というのはいかがなものかと、常々思っていたのでありますが、今回ブースが千を超え、入場者が五千人を超えたという規模の膨らみようであるのを見ると、あながち外れてもいないようになってきた感があり、感慨深いですね。
 はじめの書評は、偶然にも俺たち「崩れる本棚」の隣に配置された、知己の多い「メルキド出版」において配布していた、元「山猫文学会」所属で機関誌にも寄稿していた環原望氏、Twitterアカウントで通例「虚體ペンギン」の名で親しまれていますが、その人の初の個人誌である
「はじまりの時への幻視」
の書評、以下になります。

はじまりの時への幻視
(「賭博者たちの部屋」、「無名者たちの昼と夜」、「はじまりの時への幻視」、「北限へ」という四編の中短編で構成されています)

「賭博者たちの部屋」を初出の時以来で再読して、相変わらず良かった。ヌーヴォー・ロマンの影響の色濃い筆遣いであるが、こういった小説はまとまりの良い小説に比べて記憶に定着しにくいものだけどこの小説もそうだった。前にも熱心に読んだ筈だけど所々おかしなくらい欠落している。どこが、とは言えないけれども。
 現実を指し示す言葉が一通りではない筈というのは理念としてあっても実際には容易に現前しない。その新たな言語としてこの作品はしっかりと機能している。
「無名者たちの昼と夜」については、ちょっと長いし以前にそれなりの分量の読書会で取り上げたので割愛させて頂く。
「はじまりの時への幻視」、この「はじまりの時」というのはやはり聖書を念頭に置いているのではないか、「賭博者」は直接的にヨブ記などに言及しているけれどもこの作品では違う視点が取られている、何より光というものに対しての異様な凝視。光が暗くなるまで見つめるという、それこそ「オブセッション」みのある形象の肥大した感覚的世界像を、西洋の太い伝統をそのままの形で背中に接続し、深く息をしている。これは表面的模倣の域を完全に超えて息遣いとなっていると僕には思われた。
「北限へ」北極へと向かう船舶がどんどん空しくなるという話。短く、より純化している。やはり、こういう言葉と現実との関係があり得るのかと、嘆息する。

 以上。ごく簡単に、ざっくりとした感想ですが、まだまだ語り足りないような気もします。さらに深追いして分析していく人がいてもよいと思えるかなり良質な作品です。
 クロード・シモン、サミュエル・ベケット、フィリップ・ソレルスなどなどヌーヴォー・ロマンの好きな方で、「こういう小説を書く人が文学フリマにもいたらなあ!」と思っている方には、ピッタリだと思います。

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