Pさんの目がテン! Vol.70 何度でも処刑される哲学者 岡本源太『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』5(Pさん)

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 第五章「ヘレネ」。普遍美という考え方がある。ここの題名になっている「ヘレネ」というのは、画家によって描かれた女性で、画家が、五人の、最も美女と思われる人を目の前にもってきて、それぞれを合成して作り上げた、絵画の中の女性なのだという。現代で言う、江口愛実のことだ。何とグロテスクなカリカチュアであろうか。しかし、似たような性向というか願望みたいなものは中世からあった。美女を五人合成すれば、普遍的な美女になるはずだ。逆に言えば、現実的な女性はどれだけの美女にしても、どこかしら瑕疵がある。現代で言う、疵面(スカーフェイス)である。冗談はおいておいて、そのほかにも「黄金比」とか、普遍的な美の根拠を求めるようなことはずっと行われてきた。黄金比は、どんな視覚芸術、のみならずあらゆる自然物や宇宙にも見出されるものだから、どんな生命体にとっても、当然全人類にとっても美しく感じるはずである、とこんな感じのことを追求する人々がいる。しかし、ブルーノはそれは全否定する。そんなものあるか。いいか。AとBという人間がいて、その美しいとするものは、たとえ似たような要素があったとしてもぜんぜん別だ。いわく、「人間には人間の、サルには猿の、馬には馬の美がある」。現代で言う、「人には人の乳酸菌」だ。これはどうにもしっくりくる。しかし、そもそもブルーノは美学というものにあまり重きを置いてはおらず、今のフレーズでいうなら、人間、猿、馬と、動物と全く並列するように人間を並べる、つまり生命体の一つであると人間を名指している、やはり生命体を一般的に考えているという所の方が大きい。
 ブルーノにとって、美とは何なのか。いや、美という所に限らず、表出するものの最大の価値とは何なんだろうか。それは多様性だという。
 ここからは神学に近づく。神は何でもできる。神が何でも出来るもののうちの一部、つまり神の出来ることリストの任意の一行にあたるのが、この世界である。なんでそんな風に考えるのかといえば、神は何でも出来るにもかかわらず、この世界が何もかも起き得るというわけではない。じゃあ、何でも起き得るわけではないこの世界は、神の力能の一部でなければならないはずだ。そういう考えの一派を、「主意主義神学」と呼んだらしい。しかしそれに、いかにもブルーノらしく反論する。いや、この世界はやはり神そのものと同じだ。この世には、限界が設定されているようでいて、じつはされていない、われわれの種も変わりうる、次々に面白い別のものが生まれる可能性がある。その可能性そのものの中に私達がいれば、それは神の力に触れることにもなりうる。
 ああ、だんだんブルーノのことがわかってきた。そんなこと言うから、処刑されちゃうんだよ。(続く)

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