見出し画像

『ロリータ』『毛皮を着たヴィーナス』を読んで

はじめに


 たまたま何人かのTwitterフォロワーが記事を書いており、当のTwitterも改悪が止まらないのでnoteに戻ってきた。とりあえずこの記事ではある程度量のある文章を書くための勘を取り戻すべく、春休みの間に読んだ本の感想文を書いてみたい。取り上げるのは以下の二冊。

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』若島正訳、新潮文庫、2019年
ザッハー・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』許光俊訳、光文社古典新訳文庫、2022年

 これらを貫くものは「女」である。詳言するならば他者としての女である。以下では二つの作品を概観し、筆者が心を奪われた「女」像について記してみたい。
※以下、両作品のそれなりに仔細なネタバレがあります。




『ロリータ』『毛皮を着たヴィーナス』における女


 『ロリータ』はウラジーミル・ナボコフの1955年に出版した小説だ。名前から推察されるようにナボコフはロシア語を母語とするが、『ロリータ』は英語で執筆されている。しかし『ロリータ』はそれで文章の魅力が失われるどころか、そこからさらに訳された日本語版でも独特の言葉遊びやスピード感といった文学的魅力を充分に感じることができる。ナボコフの言語感覚は一体どうなっているのか。とにかく、ただ「ロリータ・コンプレックス」の語の元になっただけの小説ではないということだ。一方『毛皮を着たヴィーナス』はこれまた「マゾヒズム」の語源の一端を担う、ザッハー・マゾッホの1871年の小説だ。もちろんこちらも、というか、どちらの作品にもモロの性描写はほとんどない。

 これら二つの主題をなすのはいずれも一組の男女──男とその男によって出会われ、見出される女だ。『ロリータ』においては前思春期の恋愛体験(数か月年下の恋人を亡くす)を引きずり、成人してもなお前思春期の少女たちの中に最初の少女(=亡くなった恋人)の姿を求めさまよう主人公の中年男:ハンバートが、ひと時の住処を得るために訪れた未亡人の邸宅で、未亡人の娘である12歳の少女・ロリータに一目ぼれし、最初の少女との「再会」を遂げることによって。『ヴィーナス』においては苦痛に興奮をおぼえる「超官能主義者」を自称する主人公:ゼヴェリーンが、ごく年若い未亡人:ワンダと出会い、互いに惹かれ合っていく過程によって描かれる。読者はハンバート・ゼヴェリーンの眼を通して彼女らに「出会う」ことになる。そして彼女らはさながら女神のように語られる。

 こうして我々中年男あるいは超官能主義者と彼女らの出会いが果たされたわけだが、彼女らの自然の美が手放しに賛美されて終わるのではない。むしろ彼女らはここから我々によって源氏物語『若紫』の段さながらに「教育」され、やがては外界から隔絶され、我々の手のうちで本物の女神へと高められていき、そしてそれが原因となって我々中年男・超官能主義者の喉元めがけて冷たい牙をむくのである。
 中年男ハンバートはロリータを彼女の思春期特有の感性に訴えかけ小さな愛人にする。その後ロリータは寄宿学校に入れられ、その間にハンバートの嗜好・ロリータを手籠めにしていたことが妻にバレるのだが、妻はその直後にまったくの偶然から事故死してしまう。やがてハンバートは父親としてロリータを迎えに行き、彼女が誰の手にも渡らぬよう、妻の死を隠したまま逃避行を始める。その道程でハンバートはロリータを犯し、ロリータはハンバートの元から逃げようとするが、彼から母親の死を明かされ、行き場をなくして彼に追従することになる。こうして彼女はハンバートの女神としてアメリカじゅうを車で駆け巡る。
 最初のうちこそついにわが物にしたミューズとのアバンチュールに燃えるハンバートであったが、時が進むにつれ彼は、ロリータが自らのミューズではなく「ただの健康な少女」にしか見えなくなるようになっていく。それでも彼はロリータを手放そうとはせず、彼女を自分だけのものであらせるために束縛と矯正を強めていく(=教育)。その一方ではロリータが逃げ出さないようにと彼女の希望を汲んで学校に通わせたり、男子生徒との交流を許可せざるをえなくなったりし、ハンバートはある種パラドクシカルな状況に追い込まれていく。ロリータはそんなハンバートと性交こそすれども、彼の理想の少女には決してなろうとせず、ついには別の男を頼って彼の前から姿を消す。

 一方のゼヴェリーンは晴れて恋仲となったワンダに自身のアブノーマルな性向を明かし、ある時は彼女の脚を自分の頭にのせてみたり、ある時は彼女に自分を鞭うたせたりと、彼女が理想的な「女王様」になるように教育していく。当初はゼヴェリーンの注文にあからさまな嫌悪感を示すワンダであったが、次第にサディストの資質に目覚めていき(行動がゼヴェリーンの「理想」へと重なっていき)、とうとうゼヴェリーンを奴隷とする「契約」を交わす。そして二人は既存の人間関係にかかずらうことなく奴隷契約を履行するためにイタリアへと旅立つ。
 しかしイタリアへの旅路の途中から、ゼヴェリーンは「女王様」としてのワンダの振舞いに快楽よりも苦痛を感じるようになっていく。やがてワンダはゼヴェリーンの他に愛人を作り、ゼヴェリーンは嫉妬に身もだえる。そんなゼヴェリーンにワンダは「愛人は眼中にない」と言って愛の言葉を与え、ゼヴェリーンもそれに心から安堵していつものように鞭打ちをおねだりするが、気づけば部屋には愛人が現れゼヴェリーンを鞭打ちにする。ワンダはそれを見て笑うばかり。そして結局ワンダは愛人と連れ立って磔になったゼヴェリーンのもとから去っていく。


「重ねるもの」と「重ねられるもの」


 二つの物語を「ファムファタル文学」として安易に重ねる気はないが、物語の構造として「理念のもとに教育される女」「外界と隔絶される女」が共通している点はやはり看過できない。そしてその甘やかな隔絶状態が第三の男の登場によって崩壊するとき、我々中年男・超官能主義者の目論見はあっけなく打ち砕かれ、我々は自分好みにカスタムした自分だけの女神のいない無情な世界に打ちひしがれるのである。

 ここでハンバート・ゼヴェリーンがそれぞれの女神に仮託した「理念」はつまるところ概念でしかないと筆者には思われてならない。早い話が、そんな抽象的なものを眼前の具体的な人間に重ねるからろくなことになっていない。
 彼らの性向──少女への性愛・マゾヒズムは確かに彼らの具体的な経験に依拠するものだ。ハンバートには確かに亡くなった恋人がいたし、ゼヴェリーンにもそれがきっかけで女性観が狂った、と彼の語る幼時の経験があった。それから彼らは自らに刻まれた聖痕とでもいうべき厄介な性向、そこから生じる疼きと渇きを自覚し、それらが満たされる日を夢見るようになった。
 しかし彼らには、女という他者に「経験の中の女」「最初の女」を重ねることしかできない。時間を遡ることはできないし、我々が感性の世界に縛られた普通の人間である限り、「最初の女」にぴったり重なる似像(クローンとでも言うべき?)を自力で創造することもできないからだ。彼らの渇きは眼前の女に誰かの姿を重ね、彼女が自分の渇きを満たせるように教育する作業によってしか満たされないのである。
 ところが、「重ねる」という作業が前提するのは、「重ねるもの」と「重ねられるもの」の二つの対象だ。そしてこの場合、対象の一方──重ねるもの──最初の女が現在という時間を超越している(過去の存在である)以上、物理的に比較対照して一方をもう一方に近づけることはできまい。とすれば「重ねるもの」はやはり、彼らがかつての経験から取り出して形成した何らかの概念に頼って現出せざるをえないのではないか。
 ここにおいて、彼らの考える「経験がありそこから必然的に渇きが生じた」という因果関係(AナラバB的な関係)は否定されねばならないだろう。自然法則が純粋な客観だけを扱うように(質料保存の法則とか……物理学には全く触れたことがないのでそういう類比程度に捉えてください)、因果関係が成立するには結びつけられるAとBが等価でなければならない。ところが経験から抽出された概念である「重ねるもの」(最初の女)と眼前の具体的な他者たる「重ねられるもの」(ロリータ、ワンダ)は、似ているようで根本から異なるものなのだ。

恐れとしての他者/女のあらわれ


 「重ねる」ことに論理の破綻以外の問題点があるとすれば、最も大きいのはほぼ不可避に他者の他者性に盲目になってしまうことだろう。上述した必然性の話ではないが、我々が他者を他者とみなすゆえんの中には──つまり他者性の要件の一つには、他者が「AナラバB」というような法則に縛られず、行動あるいは言葉でこちらの思惑をたやすく超え出てくるという予測不可能性がある。それはとりもなおさず、他者の存在を1から10まで「わがもの」にすることの不可能であり、得体の知れないものに対する恐れである。ここから、「重ねる」文脈における教育は、他者を他者と捉えるならば厳密には成就しえない。
 ところが「重ねる」ことは、我々に、他者は自己のうちに取り込むことのできるものであると錯覚させる。それどころか、我々は自分の勘違いに気づかないまま、自分仕様に完璧に教育したと「思いなしている」だけの他者を、自らの理想に呼応する至高・不変の女神と取り違えてしまうのである。
 やがてその破綻に耐えきれなくなった他者の他者性が芽を出しはじめれば──ロリータが成長しワンダが間男を作ったように、彼女らが変化しはじめれば、我々は彼女らをより縛り付け、服従という形で支配しようとするだろう。理想の女神をこの手のうちにとどめておくために。
 ここにおいて、ハンバートおよびゼヴェリーンの眼をとおして悲劇として描かれる「女神の死」──ロリータの逃亡とワンダの浮気──は、彼らの看過していた女の他者性の発露として意味を持つ。そして彼女らが我々の首元に突き立てた他者性という冷たい牙に、筆者はどうにも心を掴まれてしまった次第である。


おわりに

 以上のようにつらつらと述べ来たったが、付言するとすれば、この記事は「男」を盲目な人間という概念に、「女」を真の他者性を解する女神という概念に「重ねる」ためのものでは断じてないということである。何より読んでいる最中、筆者は女性としてハンバート・ゼヴェリーンに共感してやまなかった。どちらも筆者が公衆の面前で裸で踊っているかのような小説だったためである。
 また、両小説ともに、救済されぬ男-新天地で幸福を得る女というような構図には着地しない。逃げた先でロリータはああなっちゃうしハンバートはチョメチョメしちゃうしゼヴェリーンは××な考えを持つに至る。何よりどちらも筆者の大好きな物語なので、この記事が誘因となってより多くの人に実際に読むなりWikipediaで結末を知るなりしていただけることを願う。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?