久世物語④【創業期】人づくりから量産体制の確立へ
2024年、当社は創業90周年を迎えます。
語呂合わせで『クゼ』と、まさに久世の年。
90年という長い歴史の中には創業者や諸先輩の苦労や血の滲むような努力があります。
どのような思いが受け継がれてきたのか、私たちがどんな会社なのか。
「久世物語」をお届けいたします。
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【第4回】人づくりから量産体制の確立へ
「金の卵」獲得の苦労
1950年代中盤に入り、顧客と製品の基礎を固めつつあった福松は、人財の採用・育成にも並々ならぬ情熱を傾けた。時代は高度経済成長の真っただ中、地方の高校生や中学生は「金の卵」と呼ばれて引く手あまたであった。雇用は年々拡大し、大手企業はブランド力や組織力によってどんどん人を採用していた。
一方、当時無名に近かった久世商店は採用難に苦しんだ。採用実績のない学校では、採用担当の教師に会うことすらできず、受付に会社案内と求人票を置くのがやっとということも珍しくなかったという。
しかし、売り上げを伸ばしていた久世商店では、人財の獲得が急務であった。福松自らが地方の学校を訪問して採用活動を行い、教師が上京する際に会社に招待して職場を知ってもらうなど、地道な努力によって学校や教師と太い人脈を築いていった。
当時まだ大学生だった久世健吉も夏休みを使って地方の高校を訪ねまわり、必死に採用活動を手伝った。
こうした努力や実績を重ね、福島、山形、岩手など主に東北地方から毎年1〜3名の新入社員を迎えることができた。
やっとの思いで獲得した社員を福松は大切に育てた。年に数回のバス旅行を企画し、社員の家族も連れて千葉の沿岸部や奥多摩などへ出掛け、親交を深めた。旅行のスナップ写真は福松が率先して撮影し、社員ひとり一人に配っていたという。
また、年に一度は寮生活をしている社員の実家を訪問し、日ごろの社員の様子や会社の動向を家族にも伝えることで、社員が安心して働ける職場づくりを推進した。
念願の独身寮完成
1960年代中盤、ついに男女の寮設備が整った。競争が厳しい地方の学生の採用では、こうした設備の有無が採用活動の結果を左右する。特に女性社員の就職では親が安全な寮生活を望むことが多かったため、独身寮の完備は会社の悲願でもあった。
血気盛んな若者が寝起きを共にする男子寮では、麻雀や放歌高吟、時には取っ組み合いのけんかもあり、近所からの苦情に福松が謝りに出向くことも日常茶飯事だった。
当時の社員数は30名に満たないほどで、社員皆が家族のような結束でつながっていた。まだまだ大人とは言えない若者たちを預かる福松には、彼らの親代わりをつとめる意識もあったようだ。
寮生は社内の社員食堂を利用していた。食堂は朝昼晩の三食を提供しており、日曜日は食事代として200円が支給された。お代わり自由の炊き立てのご飯と作りたての味噌汁が、地元を離れて久世で汗を流す若者たちの活力源となった。
設備投資で新時代へ
戦後、ゼロからのスタートを切った久世商店は着々と成長への礎を築いていた。1950年代後半からは資本の自由化により、食品産業全体で欧米からの技術導入が盛んとなった。
1960(昭和35)年、福松も工場にトマトケチャップの原材料となる生トマト用にベルトコンベア式の洗浄ラインを導入する。
さらに1964(昭和39)年に入ると、業界に先駆けて真空濃縮設備を導入した。ケチャップなどトマトを使った製品の減圧低温濃縮が可能となり、ケチャップの命ともいえる香りと色をこれまで以上に向上させるとともに生産効率が飛躍的に上がった。
こうした製造設備の進歩による品質の安定化・大量製造の実現により、1962(昭和37)年に完成した鉄骨倉庫はその3年後、さらに増設された。
そして久世商店は資本金を徐々に増やし、「株式会社久世」へ改称した。当時の主力商品は、トマトケチャップとピューレ・ペースト、ウスターソース、カレー粉、ドライパン粉など。いずれも、流行り始めた外食で提供される洋食メニューの主要な材料である。
東京オリンピック開催による大手ホテルの開業ラッシュと、資本自由化による欧米の外食チェーンの上陸。好景気に沸く東京で、福松は新たな時代の幕開けを予感していた。
(創業期・完)