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7歳女子を稲穂から考察してみたら彼女はタイムマシンだった話

実りの秋ですね。新潟出身の私としては、稲穂の広がる車窓を眺めながら毎日通学していた(線路から遠くの山まで見渡す限り田んぼ)ので、この季節は刈り取られた田んぼに白鳥が飛来しているのを探すのが日課となっていたことを思い出します。あちらこちらに白い点々が田んぼにいるんです。新潟にお越しの際はぜひ探してみてくださいね。

今住んでいるところには田んぼが無く寂しいのですが、代わりと言ってはなんですが車窓越しに行き交う人々をウォッチングしています。垣間見た一瞬の表情に私が勝手にドラマを仕立てるのが・・・って、これも昨今はなかなか電車に乗る機会も減ってしまったのでやれていませんね・・・

あ、あと、稲穂を風が吹き抜ける情景もいいんですよね。風が通ったところだけ稲穂が倒れるんですよ。トトロの猫バスみたいな感じです。「稲が避けてる!」と心の中で何度叫んだことか。

以上、新潟自慢でした。笑

さてさて、我が家の7歳女子の話を

我が家にはこの秋7歳になる娘がいます。天真爛漫。自分の気持ちに超、超絶、超脱、超人的に正直で、キレッキレのどストレートに直球を投げてくる、そんな彼女。

実るほど頭を垂れる稲穂かな、と言いますが、7歳の彼女は稲で言えばまだまだ青く、お米を実らせる前の時期かもしれません。お天道様に向かって真っ直ぐ真っ直ぐ伸びている、といったところでしょうか。

そんな青い稲穂の彼女ですが、まず朝起きて「アイス食べて良い?」って割と頻繁に言ってくるのですが、普通一回ダメですよ、と言われたら諦めませんか?まあ、簡単に「普通は」なんて常識っぽくひとまとめにしたくはないのですが。

朝ご飯の前にアイスは食べません、というのは理解している上でそれでも食べたい自分の気持ちをぶつけてくる、そのメンタルの強さ。なんて元気な稲穂なんでしょうか。ちょっとやそっとの反論にもめげないその強さは一体どこから・・・

あわよくば…とでも思っているのでしょうが、100%NOを突きつけられても不二家のぺこちゃんもびっくりの、マニュアル通りに舌をぺろっと出して「だよね〜笑」とくるもんですから、こっちも朝から調子が狂うってもんです。

私自身は怒られることが怖く、割と人の顔色をみてしまいがちなので、すぐに言うことを聞いてしまう子でした。なんの疑いもなく、言うことを聞くことこそが正義とすら思っていたので。

だから余計に彼女のそれをはじめとした様々な言動や所作に驚愕し、自分の思いを伝えることの大切さと、断られたり怒られたとしてもペコちゃんみたいな軽さで良いんだ・・・と、目から鱗を何枚も落としながら勉強させてもらっています。

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実って首を垂れるのは中身が詰まっている稲穂だけ

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

実った稲穂が全て頭を垂れるかというとそういうわけではなく、生育不良だったりで中身がスカスカの稲穂は真っ直ぐ立ったままらしいです。ぎっしり中にお米ができることで、稲穂たちは頭を垂れるかのようにしなるんですね。

この諺の意味は

若い頃はまっすぐに上を向いて立派に生育して色々な荒波や苦労を味わいながら立派な人格を形成していった人物は、偉くなっていくにつれて頭を垂れて謙虚な姿勢になる

という意味なのはみなさんご存知かと思いますが

中身が詰まるとはそもそも一体なんなんでしょうか。物理的に体が成長して重くなっている私は・・・ただ腰が痛くて頭を垂れているだけの見掛け倒しですが。

当たり前だけど中身は、中にある

私が正義だと信じていた「中身」は、「きちんと親の言うことを聞いて言われた通りにする」でした。それを疑いもなく自分に課していたので言いたい放題やりたい放題(に見えていましたが、今思えばただ自分の考えや思いを伝えていたんですね)の人を見ると

「どうしてわざわざ事を荒立てようとするんだろう」
「どうして怒られるような事をわざわざするんだろう」
「言うこと聞かないなんて信じられない!!!」

と思っていました。そしてそんな私を

「いつも言う事を聞いて偉いね」

という魔法のような(呪縛ともいう)言葉ががんじがらめにしてしまっていたのでした。

自分の思いをないことにして周りに合わせてばかりいたから、中身なんてスッカスカのフワッフワ。風が吹いたら簡単に抜けちゃいそうな稲穂になってしまっていました。

「中身」に想いがたくさん詰まっていたことを思い出す

7歳女子を見ていると幼き頃の自分を一緒にやり直してくれるような、そんなタイムマシンに乗っているような感覚になるんです。

こんな時に7歳女子みたいに自分の思いを伝えてみる。これを脳内でシュミレーションしてみるだけでも最初は動悸が半端なかったのですが、だんだん私もペコちゃんみたいなペロッがぎこちなくもできるようになってきた気がします。

本当は私にも想いがあった。

それを思い出せた時、そんな自分になったのは周りのせいだとして責任転嫁し、いつまでも被害者ぶっている自分と、その反面周りのせいになんてしたくない罪悪感の狭間にいた所在のなさに、いいかげん辟易していた自分を思い切り許すことができました。

この発見は、すごく私を勇気づけてくれました。想いが無かったわけじゃない。想いを無くしてしまったわけじゃない。あったんだ。

ただ、自分の奥深くに見えないように隠してしまったんだと。

そしてそんなふうにしようと思ったのも自分だったんだ、と。

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実りの季節は自分で決めていい

私の実りはだいぶ遅くなってしまったのかもしれませんが、これも私。

タイムマシンに乗せてくれた7歳女子とともに新米を頬張る幸せに浸りながら少しは頭が垂れているといいなあ、なんて思いながら。





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