「1行日記」【9月30日(月)】
日記とエッセイと随筆とコラムの何がどう異なるのかなどということについて俺は厳密な定義を知らないしその定義を知ったところでnoteなどという素人の物書きが恣に文章めいたものを書き連ねているこのサービスにおいては誰一人として厳密な定義通りに運用しているわけないのだからめいめい好き勝手にハッシュタグをつければよいと思うが俺は少し前にできるだけ毎日何かを書き連ねようという動機を有してからは基本的に必ず日記というタグをつけるようにしているところ日記とまで打ち込むとサジェストとして3行日記なるものが目に飛び込んできてまあ俺もTwitterという陰気な世界にしか身を置けないくせに承認欲求をどこかに置いてくるのを忘れた哀れな子羊どもが犇めいているぬるま湯のような地獄インターネッツで日々オリジナルの回文を作る回文師なる活動をしていたときに七文字回文というタグで気軽に回文の世界に飛び込んでもらおうと画策していた頃もあったから3行日記というタグが有する意義目的については推し量ることもできるのだが七文字回文については文字数が定量的に決まっているのに対して3行日記と言われてもそんなもんこのnoteを開く端末によって1行の文字数はまちまちで定まらないのであってさあ3行日記を書けと言われてもどの程度の文章量を書けば良いのか途方に暮れてしまうしせっかく俺が完璧な3行の構成で文章を作成できたぞと満足してもある者がある端末で見れば中途半端な箇所で改行がなされていると見えるやも知れなくてそんなリスクは御免被るから未だに3行日記を書けたためしはなく恐らくは今後も書くつもりはないのであり勿論俺には社会的常識というものが備わっているから3行という言葉を恣意的に解釈して例えばここでの行というのは一文ないし一段落のことを指しているのでありしたがって三つの句点のみを許容する日記や合計で三段落でオチのつく日記と解して書けば良いのであって現にみなそういうふうに思い思いの3行日記を設定してそれぞれよろしくやっているのだということを推測するのは至極容易ではあるのだがさすれば今こうしてこの画面にしたためているように一切の句点はおろか読点もつけずにあしびきの山鳥の尾のしだり尾の長々しく言葉を書き連ねていればこれは3行日記どころか1行日記になるのかしらんとて思うがままに指を走らせているのであるが既にこの世に存在するほぼ全ての3行日記よりも長大な字数を書いていることになっているはずでそれではこの1行日記を書く負担が3行日記よりも軽微なものであるかと問われれば多くの人は首を傾げるのかもしれずそれにしても我が日本語という言語は漢字とかな文字を混ぜ書きするという初学者にとっては酷い参入障壁を構造的に有している言語であるがそのおかげで単語や文節の切れ目は例えばアルファベットのみで記述される英語の如き言語と比べれば遥かに分かりやすくマトモな言語運用能力を有している人間すなわち全日本語話者の一割ほどの人間にとってみればここまでの文章の意味を損ねることなく読解することは鬱陶しいことではあるにしてもそれほど難解なことではないであろうしこの文章のような文字の羅列を読むことすらままならない圧倒的大多数の標準的日本語話者は明瞭に句読点と段落ときには太字や傍線を引いて整理され強調された文章を読んでもその趣旨や筆者の真意を読み損ねて部分的なフレーズに動物的に反応して火のないところに煙を立たせるような誤読をしたり顔で行うものであるからいっそこんなふうに平面を文字で埋め尽くして善良なる魍魎たちから読もうとする意欲を奪ってしまえば不要な炎上を避けられるということもあるかもしれないからたまには思う存分悪口雑言を書き連ねたいけれどロバの耳を暴露するのに適した壺が転がっていないから日々言葉を飲み込んで鬱屈を抱えている現代人はこのような1行日記をあるいは優れたライフハックとして活用できるかもしれない。
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