![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/157870651/rectangle_large_type_2_99088b2dd21488d7a0b6aeb9f8276ae3.png?width=1200)
「色色衣」【10月14日(日)】
我々の人生の有限なるに対して、言葉の数は無限を思わせるほど多い。しかるに諸君は日々新鮮な語彙を獲得する正統な権利を有する。
というのが俺の授業時の口癖である。
いや、ちょっと脚色がすぎたな。精確には、君たち中高生の語彙の乏しさたるや暗澹たるものであってそんなものでは大学入試で読解を求められる文章など理解できないのは当たり前で君たちの悲惨な語彙力をもってすれば世界はまだ知らぬ語句に満ち溢れているのであるから少々感度を高くして生きていれば特段単語帳を開いたりせずとも日常生活の至るところから新しい語彙を獲得することができるはずでありまずはそういう意識をもつことから始めよ必ず週に一つ以上は知らない語句を発見し意味を調べて控えておきそれを授業で報告せよ。といった旨のことを口酸っぱく言っているのである。
そうして各クラスで「今週新しく知った語句」というのを回収し共有しているのだが、語句の無限の海に呆然と立ち尽くしているのは彼ら中高生ばかりではない。少年の乏しい語彙を罵倒し叱咤する壮年の国語教師の語彙数も森羅万象の言葉の数から見れば皆無に等しいといってよい。だから、若き彼らが発掘してきた語句の中には、俺の目にも鮮やかに映るものが少なくない。
今日は「色色衣」という奥ゆかしい語を新たに教えてもらった。手持ちの辞書では日国と広辞苑にしか載っていないため、おそらく現代広く用いられている語ではなかろう。日国の語釈を引用しよう。
いろいろごろも【色色衣】
〘名〙つぎはぎをした衣服。また、ぼろ着を着た人。
*夫木(1310頃)三三「しづのめがつま木とりにとあさおきていろいろ衣袖まくりしつ」
なるほど。言われてみれば非常に納得できる、世界の解像度を上げてくれる語である。つぎはぎの服、ぼろ着、などは当然みな知っている概念であるが、そこに「色色衣」を見出した、いつかどこかの誰かの幼児のような瑞々しい感性には万雷の喝采を送りたい。
用例として挙げられている短歌がまた素晴らしい。
「しづのめ」は「賤の女」、「つま木」は「妻木」で木片のこと、この場合は生活に用いる薪のようなものであろう。「あさおきて」は当然「朝起きて」だが、あるいは「麻を着て」の掛詞でもあろうか(「お」だから違うと思うが、せっかくなのでこう解してみたくもある)。
身分の低い女が朝、薪をとろうとして襤褸を腕まくりしている。
何の変哲もない日常そのものであり、歌材になるようなものではなかろう。「しづのめがつま木とりにとあさおきてつぎはぎ衣袖まくりしつ」ならただの陳腐な風景描写、あるいは貧しさ惨めさの安い感傷に過ぎない。
それが、「色色衣」の一言で世界は一変する。モノクロであったイメージは途端にフルカラーの4Kに切り替わり、生気に欠けていたように見えた女の目にはそれなりの充実や活力がきちんと宿っている。改めて見ると、「袖まくりしつ」の何と力強いことか。
実際のところ、当時「色色衣」がどのような意味合いで使われていたのかは定かではない。俺は勝手に興奮しているが、本当は貧しさを罵り揶揄うある種の差別用語であったかもしれない。しかし、そんなことは些末な問題である。
仮にそうだとしても(あるいはそうであるならなおさら)、この語とこの歌は、およそ700年の時を経て俺に新鮮な喜びをもたらしたのであって、そのよろこびこそが「色色衣」の感性のよろこびではないか。
つぎはぎの襤褸を「色色衣」と表現した人がいる。その事実を15歳の少年から教えられる。
そういうよろこびが、この世界にはある。