語彙の豊富な差別主義者たち
たまにはライトな文体で書いていこうと思います。文体を軽くしようとすると敬体になるというのも合点がいかない感じがしますが、事実としてそういう印象があるから仕方がありません。話者に対する敬意を表すという丁寧語の機能を考えれば、それだけ我々は自分のことが大好きで大切なんでしょう。自分に対する気遣いの有無を文体の軽さの違いだと認識してしまう、という粗忽な認知機能を有しているというわけですね。残念な生き物だな。
俺は言葉とそれなりに相思相愛な仲だから、その分そのへんの有象無象よりも言葉に対して懊悩煩悶したり隔靴掻痒たる気分になったりすることが多いわけですが、わけても増え続ける差別用語――より精確には顕在化させ続けられる差別意識――については思いがぐるぐるするばかりで思考回路はショート寸前、ハートは万華鏡といった心地なわけです。
最近知って衝撃を受けたんですが、「あいのこ」って今は放送禁止用語なんですね。ワイドショーかなんかのセブンイレブンの新業態を紹介するコーナーで、「スーパーとコンビニのあいのこみたいな感じ」という発言があったらしく、それが他人の揚げ足を取ることに無上の喜びを感じる高尚な趣味人とかポリコレ棒やマナー鈍器で他人を殴りつける快楽犯とかに槍玉に挙げられ、アナウンサーが「不適切な発言があったことをお詫びします」というお決まりの謝罪をするというシーンがあったようです。
「あいのこ」というのは、漢字で「間の子」または「合いの子」と書き、「①混血児の俗称、②異種類の生物の間に生まれた生物、雑種、③異なる種類の両者の中間の性質を有するもの」という意味があります。先の発言はこのうちの③の意味で用いられていたわけですが、原義である①が揶揄的なニュアンスを含んでいるため差別的だ、混血児への偏見を助長する、ということでテレビ業界や新聞業界では使用を自粛しているようです。
なんだかなあ。
そう思う理由は二つあります。第一に、「スーパーとコンビニのあいのこみたいな」という表現は、③の意味を表していることが多少なりとも文脈という語の意味を理解している人にとっては明々白々であって、③の意味に揶揄的・侮蔑的なニュアンスは全くないという点です。この用法でも差別的だ、という誹りを免れないのであれば、ある語の起源や古い用法に差別的な意図が込められていると、その語は全く差別的な意図を介在させない用法であったとしても用いてはならないということになります。言語の意味には「更正」という概念は入り込まないようですが、それでいいのでしょうか。個々の人間には更生を求めるのに、人類の歴史の別名である言語に更生を認めないのであれば、我々の言語は時間の経過とともにますます窮屈なものになってしまうがそれでよいのでしょうか。
第二の理由は、これは年齢層によっても異なると思うんですが、少なくとも俺くらいの世代だと、「あいのこ」という言葉はもっぱら③の意味で、場合によっては②の意味で用いられることがあるのを知っているばかりで、そもそも①の意味があったこと自体を知らない人の方が多いという点です。俺も恥ずかしながら、今回のニュースがあって初めて①の意味を知りました。言葉の語源や意味の構造について人並み以上には敏感な俺ですらこの体たらくなわけですから、言語を単なる生活の道具としてしか考えていない世の大半の人間にとって、「あいのこ」というのはもはや単に「中間」くらいの意味でしかないわけですから、そこに差別精神の入り込む余地は無いように思われます。むしろこうやって騒ぎ立てることで「本来の」意味が明るみに出て、潜在的な差別意識を掘り起こすようなことにつながってしまうのではないか……
似たような話は「はだいろ」にも感じていて、ベージュとかうすだいだいとか表記されることもある、あの茶色とオレンジ色の「あいのこ」のような色のことを、日本では昔から「はだいろ」と読んできたわけですが、いやいや、肌の色って人種によって様々だし、同じ黄色人種でも肌の色は様々だから、固有の色を表すのに「はだいろ」という表現は不適切だよね、という考えがいつの頃からか出始めたんですね。それで、色鉛筆やクレヨンなどの色表記も「はだいろ」を避けるようになったわけです。俺の読者諸兄は俺よりも人生経験が豊かな方が多そうですが、諸兄のお子さんが21世紀生まれであれば、彼ら彼女らの使用した色鉛筆やクレヨンでは、もう「ベージュ」とか「うすだいだい」表記だったんじゃないでしょうか。
これもね、言わんとすることは分かるんですよ。肌の色なんて、数ある被差別要素の中でも最も歴史的に深刻といっても良いセンシティブなものであって、そのくせ日本人には馴染みの薄いものですから気を遣う必要があるのはわかります。ただ、普段の生活の中で我々は「はだいろ」という色のことを「肌の色のような色」というふうに認識しているんですかね。
一回はだいろから離れて他の色で考えましょうか。たとえば「ちゃいろ」や「はいいろ」、あとは「あいいろ」とかですか。漢字で表記すると「茶色」「灰色」「藍色」であって、それぞれ茶、灰、藍 という具体物に由来する音であることは分かるわけですが、そんなこと意識して使ってますか?実際問題として「茶色」のお茶なんて麦茶かウーロン茶くらいで、緑茶や紅茶は「茶色」とはぜんぜん違う色をしていますし、リアルな灰なんてキャンプでもしない限り、葬式以外では滅多に目にする機会がないでしょう?藍にいたっては、未成年の半分くらいはそれが植物であることを知らないでしょうし、そもそも植物の時点では藍は全然藍色ではないわけです。「やまぶきいろ」なんかもそうですよね。リアルな山吹なんて見たことない日本人の方が現在でははるかに多いでしょう。
要するに、多くの日本人にとっては、「ちゃいろ」や「はいいろ」というのは、まず単純に「ちゃいろ」「はいいろ」という色それ自体を表す名前なのであって、いちいち具体的な茶や灰の存在を介してその色をイメージしているのではない。反対に、例えば「ピーマン色」とか「柴犬色」とかいえば、多くの人は前者をプラスチックのようなツヤのある濃い緑色、後者をやや赤みがかった茶色として思い浮かべるでしょうが、その際には具体的なピーマンと柴犬をイメージして「ピーマンのような色」「柴犬 のような色」としてその色の内容を判断するはずです。両者の違いは単純で、色鉛筆や絵の具等の色の名前として一般に流通しているかどうかということでしょう。我々日本人は、具体的な「茶」や「灰」について詳しくその形状や色味を覚えるよりも前に、色としての「ちゃいろ」「はいいろ」を覚えます。その後、「茶」や「灰」について詳しい知識を得ると、ああ「ちゃいろ」の「ちゃ」って「茶」のことだったんだな、という風に事後的に色の名前の仕組みを理解するわけです。
さて、「はだいろ」に話を戻しますが、「はだいろ」も同じように少なくとも俺と同世代以上の日本人にとっては、まず単に「はだいろ」という色としてあのベージュっぽい色を覚えるわけです。この時点では、「なるほど、たしかに肌=皮膚と同じような色をしているから、肌色というのだな」などという認識はしていないわけですよ。「はだいろ」は端的に「はだいろ」でしかない。だから子供の頃から無邪気に「はだいろ」という言葉を使っていた人なら、明らかに肌の色が「はだいろ」とは異なる人を見て、「あれ?あの人の肌って、はだいろじゃないのおかしいな?」なんて思うことは通常ありえないと思うんですよね。
むしろ日常生活で用いる言葉から「はだいろ」という言葉を消し去って、ベージュやうすだいだいといった言葉であの色を表現するのに親しんだ人が、なにかの拍子で「はだいろ」という表記を目にする場合の方が問題は多いのではなかろうか。そういう人は、「はだいろ」を単なる色の名前とは認識できず、先に挙げた「ピーマン色=ピーマンのような色」と同じように「肌色=肌のような色」として「はだいろ」を認識することになってしまい、そこで「あれ?肌の色って人によってかなり異なるのに、この特定の色あいのことだけを肌色というのか……ということは肌色でない肌の色をした人たちって……?」という塩梅で何らかの差別意識を感じるという風になる可能性が高いんじゃないかと。そういう意味で、「はだいろ」の表記を避けた方が弊害が多い気がするんですよね。
まあ一つ考えられるのは、幼少期に純粋に色の名前として「はだいろ」を覚えられる日本語母語話者はともかく、他言語の母語話者が外国語として日本語を覚えようとするときに、「肌色」という言葉にはどきっとするかもしれないということです。
趣味や仕事で日本語を学習する人が「はだいろ」という言葉を覚えるときに、「ベージュに相当する色を表すのにスキンの色を持ち出すなんて、ジャップの認識する世界の中には白人や黒人は存在しないようだな。さすが人権後進国だぜHAHAHA」と呆れられたり怒られたりする可能性はあるのかもしれませんが、非母語話者が学習する際の印象や便宜を優先して、母語話者として伝統的に有していた感覚を放棄するというのもなんだか本末転倒な感じもしていて何が正しいのかよくわからないですな。
いや、もちろん差別については、意図的なものよりも、無意識下に存在する差別の方がより問題であるということも重々承知してはいるんですけど、あんまりそればかり気にして言葉狩りを続けていって幸せな世界は本当に待っているんだろうか?多様な存在に配慮して言語から多様な言い方を奪うことで出来上がるのが理想的な社会なんでしょうか。
まあでも、語彙が豊かになることになって得られる幸せというのは個人的なものでしかないわけです。しかも、その幸せを享受するためには、才能か環境か何にせよそれなりに恵まれないといけないわけで、豊かな語彙を自由に使いたい、なんていう要求自体が多分に貴族主義的といえるでしょう。だとすると、「あいのこ」やら「はだいろ」やらを俺は差別的意図なんて無いんだから使い続けたいんだ!なんて主張する俺たちみたいな連中も、やはり立派な差別主義者ということになるのかもしれません。