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出家したがる若人が教えてくれたこと
もう出家するしかないんです……
前途ある18歳の青年は青ざめた顔でそう言った。
古文の話ではない。ほんの5年ほど前のことだ。
センター試験(今は共通テストという)ってやつは毎年多くの若者の心をへし折るとんでもない悪党で、マーク式故の自己採点の容易さという性質をもって、試験の当日ないし翌日から受験生のメンタルをズタボロに引き裂いてしまう
若者に勉強を教えるなどという因果な商売をしていると、毎年センター試験・共通テストの時期には多くの絶望した生徒たちを励まさなければならないわけで、全国の進学校や塾の先生は1〜2週間ほど心理カウンセラーにジョブチェンジすることになる。
冒頭の彼もそうして心をへし折られた者の一人であり、思う通りの結果が得られなかった悔しさと情けなさの結実した言葉が「もう出家するしかない」であったわけだ。
たかが受験程度で何を大袈裟な、と言いたくなる読者諸氏の気持ちを否定するつもりはない(何なら俺だってそう思ったのだ)が、彼にはそう言いたくもなる事情がある。
才能とか地頭とか、そういう誰かが言いだした言葉を軽々しく用いることで世の中の真理を悟った気になるのはまっぴらごめんだが、そういう言葉で表さずにはいられないどうしようもない現実が、受験勉強には確実に存在する。
同じ10の結果を出すために、1の労力で難なくこなせる者もいれば、10の労力を費やすものもいて、100の労力を費やしてもそれが叶わない者もいる。それが遺伝によるものなのか、生活環境によるものなのか、幼少期より自身が築いてきた習慣によるものなのか、これまでしてきた運動の種類によるのか、これまで読んでいた活字の量によるのか、そのどれもが関係あるのだろうし、そのどれもが唯一の原因ではないだろう。そういう分析はプロの偉い研究者に任せるが、原因がどうあれ、勉強をしていれば「知識の理解・定着にかかる時間」「同一知識量下での問題の理解の程度」に個人差があるという事実に直面せざるをえない。そうした能力のことを、ここでは「要領の良さ」と呼ぶことにしよう。
件の彼は、自信の欲する受験結果に対して、相対的に要領の良い方ではなかった。その事実を知った人間が出来ることは、努力の量で要領の差異を埋めることのみである。自分よりも少ない時間と労力で自分の目指す頂きに達することができる人間の存在を認識しながら多大な努力を自らに課すのは、身を切るような辛苦を伴うものだが、彼は果敢にそれを実行した。
努力と情熱の総量として、彼のそれを上回る生徒を俺はほとんど見たことがない。
その努力と情熱が崩折れてしまったのだ。
血の気の失せたという陳腐な表現がぴったりの、およそ活力というものを感じられない表情で彼はつぶやく。
先生、僕は正直あんまり頭の良い方じゃないです。だから人より努力しなくちゃいけないのは分かっているし、実際に努力してきたつもりです。そのおかげで人に比べて時間はかかったけれど、少しずつ実力は伸びてきた感じはするし、実際に模試でもまあまあの点数は取れるようになってました。でも、結局本番でこんな無様な点数しか取れないってことは、やっぱり僕には勉強が向いてないんですよ。こんだけ頑張って結果が出せないやつは、どうせ社会に出たって結果は出せないんですよ。人より頑張ることしかできないのに、頑張ってもロクな結果を出せない人間に、もう社会の居場所なんてないんですよ。だから……
もう出家するしかない、というわけである。
これは困った。
試験は水物であって、運の要素が大きく影響するものだ。センター試験の成績ごときが社会貢献に与える影響は軽微である。無様な点数と君は卑下するが、その無様な成績は誰かにとっては羨むような好成績である。その点数でも出現できる大学はいくらでもあるし、挽回のチャンスはたくさんある。
受験生を慰撫する言葉ならいくらでも出すことができるが、どれを言っても彼には届かない気がした。理屈ではないのである。彼は人一倍勉強してきたのだから、理屈ぐらいは分かっているのだ。分かっているから辛いのであって、そういう人間に理屈の通った言葉を投げてもしかたがない。理屈ではない。何か血の通った言葉を与えなければならない。
頑張ったのに報われない、そのどうしようもない気持ちは、わかるよ。
俺は本当の言葉を探して語り始めた。
正直なところ俺は要領の良い子供だったから、学校の受験で困ったことはない。高校受験も第一志望に受かったし、高校に入ってからも常に成績は最上位だった。センター試験の直前は緊張しまくって貧血で倒れたり高熱を出してうなされたり試験官に嫌がらせされる悪夢を見たり散々だったけど、当日は望外の高得点を取れたし、結果としては余裕で第一志望に合格できた。だから、今センターで思うようにいかなくて落ち込んでる君の気持ちは、それ自体として100%共感できるわけではない。
でもね、自分の思う限りの努力ができて、自分の納得できる実践ができたのに、それが報われない辛さは、俺にだってわかるよ。学校の受験自体はたまたまうまくいってたけれど、そのあとで大きな資格試験があってな。その試験に俺は落ちちゃったんだよ。大学も大学院も、言うならその資格試験に受かるために勉強してたのに、そこまでは順調だったのに、最後の最後でダメでな。ショックだったよ。俺の人生で受験番号が掲示されないなんてことがあるなんて思ってなかったから、何度も何度も見直したけれど、俺の受験番号は合格者一覧になくてさ。絶望したよ。ちゃんと勉強してきて、試験の手応えもあったのにさ。
でも、どんなに辛いことがあったって、本当に大切なのはその後をどう生きるかなんだ。俺は資格試験に失敗したけど、それがきっかけでこうして塾の先生をしていて幸せな生活を送ることができている。君が今まで受けてきた授業は、人生に挫折したどうしようもない人間がつまらなそうに行っているものだったか?そんなことはないだろう?俺がもしあのとき試験に受かっていたら、多分塾の先生はやっていないだろう。挫折自体は辛く苦しいものだけれど、そのおかげで出会えるものが、人生にはたくさんあるんだよ。だから大切なのは、このセンター試験の結果を受けて、君が今から何をするかということなんじゃないのか。
俺はそういうことを彼に伝えたかったのだ。陳腐で稚拙な言葉だけれど、人生の真実の一部を照らす言葉であるはずだ。そういう言葉で、若き青年の勇気を奮い立たせるのだ。
そういう気持ちで必死になっていたのだけれど、どうにも彼の様子がおかしい。
本当に、数分前まで彼は顔面蒼白だったのだ。およそ生気の感じられない、本当に出家してもおかしくないくらいに、この世に絶望しきった表情を浮かべていたのだ。
それがどうだ。先の長文の俺の「本当の言葉」の第二段落が始まったあたりから、なんだか様子がおかしい。先ほどまで真っ白だった顔色にはみるみる血の気が戻っていき、俺が資格試験に落ちたというくだりで、口元はニヤニヤと緩んできているではないか。
「本当の言葉」と書いてしまったが、そのうち現実に発した言葉は、実は第二段落の途中までだ。それ以降は俺の心の中に浮かんできたのみで、結局のところ彼に披露する機会に恵まれなかった。なぜなら、俺が試験に落ちて大いにショックを受けていると話したあたりで、彼がこう言い放ったからだ。
「なんだ、先生でもそんなことあるんですか。へへへ、そっか、先生でもやらかしたことあるんですね。それなら、なんか、僕も頑張れそうな気がします」
生気を帯びたどころかもうほとんど赤らんだ顔で、口元が緩むばかりか哄笑の声すら上げている。ついさっき出家がどうのこうの言っていた人間とこいつは本当に同一人物なのか?
あまりのことに口をあんぐりとさせてしまって、俺の感動のお話はもうおしまいだ。挫折から立ち直った話をして勇気づけようと思ったのに、単純に俺が辛い挫折をしたというくだりを聴いただけでもう元気になってやがる。こいつめ、人の親切を何だと思ってやがるのだ。なんだか少し腹が立ってしまって、ひょっとしたら口をangryとさせてしまっていたかもしれない。
結局その後彼は「なんか元気出てきました。2次試験の残り期間、やれるだけやってみます」とニヤニヤしながら言い放って自習室に向かってしまった。
俺はというと、思いがけず道化の振る舞いをしてしまったことに対してしばらくあれかにもあらぬ心地で佇んでいた。
ずいぶん失礼なやつもいたものだ。
真面目に心配して損をしたぜ。
恥をさらけだしたこっちの気にもなってみろ。
そうしたありふれた愚痴がひとしきり駆け巡った後に、しかし、これは何かすごい経験をしたのではないかと、人生というものの意味に大きな示唆を与えられたような思いが頭をむくむくともたげてきた。
人生に挫折はつきものである。
その挫折をどう乗り越えるのか、どう笑い話へと昇華するのか、それが人生の大きな課題でありかけがえのない意義だと、俺はこれまで考えてきた。
乗り越えてこそその経験は自分の人生に彩りを添えるのであり、笑い話として披露してこそ他者の人生を支えるものになるのだと。
ところが、今の経験はどうだ。ほんの一瞬前まで遁世を志すほどにまで追い詰められていた若人が、俺の挫折の経験を耳にしただけで、俗世に立ち向かう活力を得たのだ。
挫折を克服した逸話によってではない。ただ挫折した、ただ俺が傷ついたという事実のみによって、青ざめた彼の表情に生気と熱が戻ったのである。
なんということだ。
こんなことが起こるのだとしたら、人生において恐れるものなど何もないではないか。
挫折の克服は無二の財産である。それを志す動機は失ってはならない。しかし、それにはやはり恐怖がつきまとうものだ。
もしこの辛く悲しい経験を乗り越えることが出来なかったら……
もしいつまでもこの挫折がべったりと自分の人生に翳を落とし続けるのだとしたら……
こうした恐怖は、挫折を克服しようとする気概をもくじいてしまうかもしれない。
でも、自分が挫折したその経験が、直接的に自分の大切な人を笑わせて勇気を与える可能性があるのだとしたら、もう何も恐れることはないではないか。克服なんかできなくったって、自分にとっては辛くて苦いその思い出が、誰かにとって明日へ踏み出すための糧となるのなら、だったらそれで俺の人生は十分意味があるじゃないか。
そんなふうに思うことができて、喉の奥に引っかかっていた魚の小骨が取れたような爽やかさを感じた。俺の挫折の経験は、今日、本当の意味で克服できたのかもしれない。
そんな俺の克服の経験もまた、彼の挫折の経験のおかげなのだ。