![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/152780229/rectangle_large_type_2_a76c11e2edb7da5f05d5b522934930b5.jpeg?width=1200)
寺山修司展@世田谷
「寺山修司さんとは、一体何物であったのだろうか。肩書社会に生きる人間の常として、詩人、歌人、小説家、劇作家、演出家、映画監督、シナリオライター、文芸評論家、エッセイスト、写真家、ボクシング評論家、ジャズ評論家、競馬評論家・・・と、さまざまな職業を思い浮かべてみる。そして、そのいずれもが、人をはるかに抜きんでていることに気付かないわけにはいかない」
「再び思う。寺山修司さん、あなたは何者だったのでしょうか、と」
「寺山さん自身は「ぼくの職業は寺山修司です」と笑っていたものである。確かにそうかも知れない。寺山さんは”寺山修司”という肩書を持つ、当代随一の才人であった。そして、その都度熱中している対象が、職業なのであった」。
これは読売新聞編集委員だった北川登園氏が寺山追悼のために書いた文章の冒頭である。
寺山修司(1935-83)は、様々な芸術分野を横断することでその才能を遺憾なく発揮した。
そして現在も、戯曲の再演や映画上映などを通じて、若い世代を含めたファンは増え続けている。
![](https://assets.st-note.com/img/1725187834037-k8qHXfHzHc.jpg?width=1200)
その寺山修司の人物像と活動を紹介する「寺山修司展」が2024年10月5日(土)から2025年3月30日(日)まで世田谷文学館(東京都世田谷区南烏山1-10-10)で開かれる。
寺山生誕90年にあたり、これまで同館で収蔵してきた関連コレクションを文字通り蔵出しして一堂に展示する。
![](https://assets.st-note.com/img/1725188126853-6FZ6kifmUa.jpg?width=1200)
自筆の書簡や「天井桟敷」に関する資料(原稿・台本・ポスター)など約150点の資料を見ることが出来るまたとない機会だ。
![](https://assets.st-note.com/img/1725187874771-Q1qypT6wXH.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1725188149082-kgWiyfmdlR.jpg?width=1200)
開館時間は午前10時から午後6時(入場、ミュージアムショップは午後5時半まで)。休館日は毎週月曜日(ただし、月曜が祝休日の場合は開館し、翌平日が休館)。年末年始(12月29日~1月3日)、館内整備期間(3月10日~18日)。
入場料は一般200円、高校・大学生150円、65歳以上・小中学生100円。10月5日(土)は60歳以上入場無料、11月8日(金)は65歳以上入場無料。11月16日(土)、17日(日)はセタブンマーケット開催に伴い入場無料となる。
問い合わせ先は℡03-5374ー9111。世田谷文学館の公式サイトは https://www.setabun.or.jp/
寺山は1935(昭和10)年12月、青森県弘前市に生まれた。母親が働きに出ているため一人で過ごすことが多い子どもだった。
そして13歳の時に、映画館を経営する青森市の親戚宅に引き取られた。
この頃から中学校新聞に童話などを発表。
青森県立青森高校に入学すると学校新聞や文芸部に参加。短歌の世界に没頭していく。17歳の時には全国学生俳句会議を組織し、学生俳句大会を主宰するまでになる。
寺山は早稲田大学教育学部国文学科に入学する。
「チェホフ祭」50首をつくり、第2回「短歌研究」新人賞を受賞する。
しばらくして、寺山は戯曲を書くようになる。戯曲第一作「失われた領分」を書いたのは19歳の時、1955(昭和30)年だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1725187918799-8MchryLfuh.jpg?width=1200)
その後、寺山の活動分野はラジオドラマ、ボクシング評論など多岐にわたっていく。
![](https://assets.st-note.com/img/1725187943774-xF8pLTuXS4.jpg?width=1200)
演劇実験室「天井桟敷」を創立したのは1967(昭和42)年。第一回公演は「青森県のせむし男」だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1725188075311-312B3llm9j.jpg?width=1200)
「大山デブ子の犯罪」、「毛皮のマリー」などが続く。
![](https://assets.st-note.com/img/1725188021301-HJ7qJZjv84.jpg?width=1200)
今でもとりわけ語り草となっているのは、1970(昭和45)年に寺山が喪主となって行った「あしたのジョー」(作:隆盛朝雄、画:ちばてつや)の力石徹の葬儀だ。
寺山ならではの映画も制作していく。1971(昭和46)年の「書を捨てよ町へ出よう」。初の劇場用長編で、この作品には確固とした物語はなく、現実、過去、幻想といったさまざまな世界が主人公の中でイメージとして現れる、それを表しているといわれる。
![](https://assets.st-note.com/img/1725187964742-W8GUDXvDrY.jpg?width=1200)
また1974(昭和49)年の「田園に死す」は自伝的色彩が濃く、想像的に自らの少年時代を回想している。
1983(昭和58)年、唐十郎の小説「佐川君からの手紙」の映画化の脚本を引き受ける。のち、意識不明となり、東京都・阿佐ヶ谷の病院に入院するも、5月4日、肝硬変と腹膜炎で敗血症を併発し、同病院にて亡くなった。享年47。
(寺山の歩みは北川登園著「職業寺山修司」日本文芸社を参考にした)