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デニー・レイン追悼の集い
【スピリチュアル・ビートルズ】2023年12月5日にウィングスでポール・マッカートニーの右腕として活躍したデニー・レインが亡くなった。
そのデニーを追悼する「WINGSFAN Tribute for Denny Laine & Wings」が2024年2月4日(日)、ブリティッシュパブ&ライブハウス「エールハウス」(豊島区西池袋12-16-8)で行われた。
共同プロデューサーの一人梅市椎策さんによると、2002年からWingsのトリビュート・イベントを年1回程度のペースで開いてきたという。
まずは皆でデニーに黙とうを捧げた。
梅市さんは「今日のイベントのことをデニーさんの奥さんエリザベスさんにお知らせしたところ、デニーさんの公式フェイスブックやインスタにあげてくださったんです」と話した。
「そしたら世界中のファンから行きたいけど行けないんですと声があがって、録画することにしました。奥さんにご覧頂きたいと思います」。
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ここでPAULソーセージ&Winナースが登場した。
一曲目は「Time to hide」。イントロと間奏のデニーによるハーモニカも再現した。これは『Wings Speed of Sound』から。続いては、『Venus and Mars』より「Spirits of Ancient Egypt」。
再び『Speed of Sound』収録の「The note that you neverr wrote」。この曲は歌詞が難しいという話になると、これってポールが適当に作ったということになって「いつものポールらしいね」と落ち着いた。
そして007死ぬのは奴らだのテーマ曲「Live and let die」のB面だった「I lie around」が歌われた。この意味は「嘘をつきまくり」とか「ごろごろしている」とかいう声が出たが正解は「ぶらぶらして回る」だという。
デニーといえばこの曲だといって披露されたのは、ムーディー・ブルース時代のヒット曲でウィングスのライブでも歌われていた「Go now」。
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タローさんからここで「もう一曲やりましょうよ」との声があがった。「デニー・レインのウィングス時代の最後の輝きみたいな曲」(シゲさん)だと紹介されて「Again and Again and Again」がラスト・ナンバーとなった。これは『Back to the Egg』からの曲だ。
休憩をはさんで、共同プロデューサー二人、梅市さんとミュージシャンの永沼忠明さんのトークショーとなった。
永沼さんはポール・マッカートニーを歌わせたら日本でも指折りといわれるほどの腕前で人呼んでナガヌマッカートニー。
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2006年1月にアラン・パーソンズ・プロジェクトと一緒にデニー・レインが来日した。その時、日本公演の最終日が終わった後、六本木のキャバーン・クラブで打ち上げがあった。
アラン・パーソンズ・プロジェクトのバンド・メンバーたちがいて「デニー・レインも来る」という話になった。
「デニーは来たものの、なかなか表に出てこなかったけれど、みんなビートルズが大好きなのでやっていて・・・これってコンサート終わった後の夜中ですよ・・・楽しんでたんです」と永沼さん。
梅市さんは「深夜1時くらいでした」。
「デニーがなかなか出てこないので、ぼくは休憩時間にデニーに「ウィングス・ファンを代表して」挨拶にいき、「「Go Now」を歌いませんか」というと、デニーはそれまで飲んでて、やる気がなかったのに急に「「Go Now」出来るの?」となったんです」と永沼さんは回想した。
「「Go Now」が出来るというのでデニーは大喜びで出てきてくれたんです。ステージが終わった後、ぼくはデニーにパブに連れていかれて朝まで飲んで、またキャバーンに戻って、また飲みました」。
「そして「お前ら凄いな」となって、この後リバプールでビートルズ・コンベンションがあった際に、そこでデニー・レイン・ショーがあったんです。チェックが厳しくて、ぼくはデニーの写真が入った名刺を持っていたので見せると、デニーが出てきてくれて「オーッ」って」。
最後に会ったのは2017年のこと、「ポールの来日公演を見た後にアメリカに行ってデニーに会いました。デニーのギターを積んでから、二人でハグして、それっきりになっちゃったんです」。
"Tadaaki nice guy"
梅市さんは「今日イベントに永沼さんが出るって言ったら、デニーさんのサイトに「Tadaaki nice guy」って。永沼さんは2006年からデニーさんとつきあいがあったんです」と話した。
そしてこんな話も永沼さんは披露した。「この前、デニーが来日した時、成田で止められたんです。デニーのところの親分は前科がありますが、前科がないデニーが税関で朝から8時間ずっと止められたんです」。
「その日の公演は2部構成だったんだけど、1部はデニーがいなくて、会場のコットン・クラブも返金するといってたんです。2部はかなり押してたんですけど、デニーは間に合いました」。
「デニーは開口一番「俺は無実なんだと言いたい!」」。
そして第3部は永沼さんのライブ。キーボード兼ボーカルは鈴木ミホさん。「親玉のほうの歌をやります」と永沼さん。
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『McCartney』からの「Everynight」に続けて、「Red Rose Speedway」のB面メドレーの中の佳曲「Hands of love」。
そして「My love」。ミホさんは右の頬に「My love」のシングル盤ジャケットのようにハート・マークをペインティングしていた。
続けて「Listen to what the man said(あの娘におせっかい)」。締めくくりは「Silly love songs(心のラヴソング)」だった。
ここで海外から駆け付けてくれた仏人ノーランさんが壇上にあがった。
インスタで見て、たまたま日本にいたので急遽参加したという。
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梅市さんが英語で「Can you sing Picasso's Last Words' French part?」と聞いたが、通じたのか通じなかったのか。
そして「Picasso's Last Words(ピカソの遺言)」を演奏した。もちろん、ノーランさんが間奏のフランス語のセリフを担当した。
ビートルズそしてウィングス・ファンだというノーランさんからのリクエストで「No Words」が続けられた。これは50周年を迎えた名盤『Band on the Run』のB面収録曲である。
ノーランさんはフランス盤とはスリーブが違うという理由で、日本では日本製のレコードを購入したという。
永沼さんは「お別れのナンバーになってしまいました。曲としては5分ちょっとだけど1時間半くらいやります」。
「最後を繰り返すので飽きたら帰ってください。最後に残った人が優勝です」とジョークを飛ばした。
「皆さんの歌声が天のデニーに届きますように」との言葉の後に、そう、最後の最後はポールとデニーの共作にして英国でのメガヒット「Mull of Kintyre(夢の旅人)」だった。
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デニーが亡くなった後、ポールはSNSを通じて追悼メッセージを発表していた。「バンドメイトだったデニー・レイン死去のニュースに驚いています。ビートルズがムーディー・ブルースとツアーをした初期の頃からの、デニーとの親密な思い出がたくさんあります。ぼくらの2つのバンドは互いに尊敬し、多くの楽しみを共有しました」。
「デニーは最初からウィングスに加わりました。彼は素晴らしいボーカリストでありギタープレイヤーでした」。
「一番有名なパフォーマンスはおそらく「Go Now」でしょう。ベッシー・バンクスの古い歌で、彼は見事に歌いあげたものです。デニーとぼくは何曲か一緒に書きました。その中で一番成功したのは「Mull of Kintyre(夢の旅人)」で70年代に大ヒットしました」。
デニーは1944年、イギリスはバーミンガムに生まれた。幼い時から音楽が大好きだった。1962年、デニー・レイン&ディプロマッツを結成し、演奏活動を地元で開始。64年に解散すると、ムーディー・ブルースを創設、一時はイギリスを代表するグループとなる。
デニーは67年に脱退。それからいくつかのグループでの活動を経て、旧知のポールに誘われて、ウィングスに参加した。
デニーに会いたかったリンダ
「Crossbeat」掲載のインタビュー記事によると、リンダは「ニューヨークでムーディー・ブルースを聴きながら、レインに会いたくてたまらなかった若かりし頃を思い出していたが、まさか自分がレインと一緒のバンドのメンバーになるとは想像もしていなかった」。
「「ニューヨークでムーディー・ブルースのファースト・アルバムを持っていたのは、私しかいなかったんじゃない?」、そう言って、リンダは笑った」と同誌のウィングス特集(2014)には書かれていた。
デニーのソロ・アルバムとしては『AHH LAINE!』と、ポールがプロデュースし全面的に協力した『Holly Days』(1972)などがある。後者で使われた写真はリンダの撮影によるもので、ポールと同じくバディ・ホリーのファンらしく「It’s so easy」などを取り上げた。
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また、『Japanese Tears』という微妙なタイトルのアルバムも出している。タイトル曲は日本というよりは中国色の強いナンバーだ。
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ウィングス解散後は、各地のビートルズ・イベントに出演するなど活動を続けたが、2022年に新型コロナに感染し、その後も後遺症に苦しみ、間接性肺疾患でこの世を去った。闘病中の2023年9月、現在の妻エリザベスがデニーへの支援を呼びかけ、GoFundMeを立ち上げていた。
エリザベスは「私のダーリンは今朝早く静かに旅立ちました。私はベッドのわきでデニーの手を握って彼の好きなクリスマスソングをこの数週間、歌いました。そしてICUに入ってからもそうしていたのです」。
「私もデニーも回復を信じ、リハビリに戻って、やがて自宅に帰れると信じていました。しかし不運なことに、間接性肺疾患は予測不能でしつこかったのです。デニーの肺を弱らせ、ダメージを与えてしまいました」。
「デニーは来る日も来る日も闘い続けました。デニーは強くて勇敢でした。決して愚痴をこぼしませんでした。彼はただ、私とペットの猫チャーリーと一緒に自宅で、ジプシー・ギターを弾きたがっていました」。