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落語日記 新一万円紙幣の顔、渋沢栄一の偉業を伝えてくれた神田京子先生

せいえん寄席 ~新紙幣発行記念スペシャル公演~
10月13日 北区・中央工学校21号館 ステップホール
近代日本経済の父と称される渋沢栄一は邸宅を飛鳥山に構えていたので、北区の地域の皆さんから地元の偉人として敬愛されている。そんなことから、北区の皆さんと神田京子先生が中心となって、渋沢栄一にちなんだ地域寄席を立ち上げた。この日が、発足第1回目となる記念の会。
渋沢栄一の雅号「青淵」と未来を応援したいという意味の「声援」をかけて、この会は「せいえん寄席」と命名された。落語などの演芸が大好きだった渋沢栄一にちなみ「地域寄席として地元に溶け込み、楽しみながら渋沢翁のご威徳に触れることの出来る演芸会を目指します」というのがこの会のコンセプト。
今回の番組は、新紙幣の顔となった渋沢栄一と津田梅子を記念して、二人の半生を京子先生と神田蘭先生が講談に仕立てて披露し、落語は渋沢栄一と交流のあった落語中興の祖三遊亭圓朝作の「死神」をネタ出しで三遊亭遊雀師匠が口演する。
裏方として芸協の後輩、春雨や晴太さん、三遊亭吉馬さん、神田桜子さんがお手伝いに来ていたそうだ。

挨拶 神田京子・越野光博(せいえん寄席席亭)
京子先生のエックスによると、京子先生へ渋沢栄一を講談にすることを5年前に勧めてくれたのが、東京商工会議所北支部会長の越野充博さん。その越野さんがこの会の席亭を引受け、スタッフを引っ張っている。そう言えば、東京商工会議所の初代会頭が渋沢栄一なのだ。
京子先生が渋沢栄一伝に取り組みだしたことが、この会を始める切っ掛けのひとつではあるだろう。

まずは、そんなお二人、京子先生と越野さんが舞台に上がり、ご挨拶からこの会が始まる。越野さんの解説が詳しくて、面白い。
渋沢栄一は大の落語好きで、屋敷に落語家を招いて落語を披露させて楽しんでいた。特に、三遊亭圓朝が大のご贔屓。静岡に隠居していた徳川慶喜を渋沢栄一は圓朝を連れて訪ねて、落語を披露させて大そう喜ばれたらしい。
渋沢栄一は圓朝に対して、海外の物語を翻訳して落語にしてはどうかと助言し、その成果として海外の物語が元になった圓朝作の落語が多いとのこと。今回ネタ出ししている「死神」も、グリム童話が元となっていると言われている。そんな圓朝の落語にも影響を与えたらしい渋沢栄一との関係が、このお二人の解説から伝わってくる。

三遊亭げん馬「まんじゅう怖い」
遊かり独演会でもお馴染みのぜん馬さん。前座のお仕事として携帯電話などの注意事項を告げるも、噺に入って早々、客席で鳴り響く。この後の蘭先生の高座でも鳴った。落語会にあまり慣れていない観客が多いようだ。

神田蘭 講談「津田梅子伝」
艶やかな蘭先生の登壇で、舞台が一気に明るくなる。
まずは、ネタ出ししている津田梅子とのご縁の話から。以前、NHKラジオ深夜便で明治の偉人たちを短い講談にして紹介する企画を行った。月一回二年間で24人を取り上げ、その中には渋沢栄一と津田梅子も取り上げた。
その仕事の後、この中から二人を選んで長い講談に仕立てた。その二人というのが、渋沢栄一と津田梅子。まだ新紙幣の顔に選ばれていなかった頃の話。ここで、この二人を選んだ蘭先生の慧眼、先見の明を自画自賛。観客も納得の拍手。

物語は、明治4年の岩倉使節団に津田梅子が留学生として選ばれたところから始まる。このとき、梅子はまだ6歳。それからアメリカに11年間滞在して、英語はもちろんフランス語やラテン語などの語学から先進の学問までを優秀な成績で学んでいった。現代に行われても凄い偉業だと感じるのに、明治時代の価値観や社会事情からすると、とんでもないことを成し遂げたことになる。
その梅子が、日本に戻ってから、日本社会の価値観や風習の壁にぶつかる。まだまだ女性に対する偏見や差別が目に見えて存在し、女性の社会的な地位も低かった時代。そんな世の中でも知恵を働かせて前向きに活動の場を広げていった梅子の活躍を、講談らしく、面白可笑しく講釈してくれた。

三遊亭遊雀 落語「死神」
まずツカミは、初めて来たこの会場へ到着するまでの分りづらい道のりとその不安な様子で会場を暖める。
落語に馴染みのない観客もいる様子を感じて、落語は弱い芸です、と芸の性格を表す例として実話を披露。ときに、演者でなく観客の方が面白いことがある。と言って紹介したのが、以前の浅草演芸ホールで出会ったお婆さんの話。これで、会場ますます盛り上がる。
落語界でも圓朝と渋沢栄一との関係は有名な話らしく、楽屋に伝わる話を紹介。金遣いの荒かった圓朝は売れていたが、経済的には困窮状態。これを助けるために渋沢栄一は募金を募り、圓朝宅へ今なら何千万という現金を届けた。それに対して圓朝は「おれは乞食じゃねえ」と言って断ったとのこと。この驚きのエピソードに会場も感心していると、私なら喜んで受け取る、誰れかいませんか、渋沢栄一。その一言で、また爆笑。
遊雀師匠の芸紋である「高崎扇」の由来を説明。この「高崎扇」は、圓朝の芸紋でもある。圓朝は高崎藩の藩主から許しを得て、高崎藩主の家紋を使っている。なので、高崎扇と呼ばれている。この家紋は圓朝から圓馬、遊三、小遊三との流れで、遊雀師匠も引き継いでいる。まさに遊雀師匠は圓朝の系統を引き継ぐ落語家であることを、芸紋によって証明してみせた。この説明してから、羽織を脱ぎ、本編へ入る。

本編に入ったとたん、客電も落とされ、遊雀師匠が下からのライトで浮かび上がる。まさに怪談バージョンの照明に切り替わる。この辺りの演出も本格的。ネットで見たのだが、この怪談噺での照明を落とす舞台演出は、圓朝の口演時から始まったようだ
本編は、非常にシンプルな印象の死神。ストーリーも簡略化して、お馴染みの見せ場のみを繋いでいるような印象を受けた。家庭の崩壊が理由で主人公が死にたくなったことなどは描くことなく、出だしは死神の「死にてえのか」からいきなり始まる。
この噺のお楽しみの呪文の入れ事、遊雀師匠はここでかなり遊ぶ。呪文はかなりの長文となり、小噺ひとつ分くらいある。この呪文だけでも、爆笑。長すぎた呪文、結局「アジャラカモクレン、テケレッツのパー」というシンプルな原形に戻る。
その後、医者として成功するも、枕元に死神がいる病人ばかりで、貧乏生活に逆戻り。そしてお馴染みの策略をめぐらす場面へ。ここでは、死神がウトウトするまでの主人公との睨み合いが見せ場。強面の遊雀師匠が見せる死神の表情が絶品。目をむいて病人を睨みつけながら、徐々に眠気を催していく死神の表情の変化は、下から当てられるライトによって、不気味さがマックス。
この演目は、演者の工夫によって下げが様々で、どんな下げなのかも楽しみのひとつ。遊雀師匠の下げは聴いてのお楽しみだが、たぶん他の演者でも聴いたことのある型。最後まで熱演で盛り上げた遊雀師匠だった。

仲入り

橘右門 寄席文字実演
舞台に大きな一枚看板で「寄席文字」と「三遊亭遊雀」が掲げられている。その中を右門師匠が登場。この大看板は、実際の寄席に掲げられているものと同じもの。右門師匠は、現在、新宿末廣亭の寄席文字を担当しているのだ。
寄席文字の隙間を少なく右肩上がりという特徴の謂れを解説。実際に書いてみせてくれたのが「志」の文字。落語家の名前でよく見る文字。ところが、この文字は、志ん生師や志ん朝師の「志」と談志師の「志」の字は、寄席文字では違う字体なるという不思議。
最後に客席からのリクエストに応えて、「夢」と「妙」の文字を色紙に書いてプレゼント。

神田京子 講談「渋沢栄一伝 青春編」
この日の主任は、この会のプロデューサーでもある京子先生。この会のコンセプトでもある渋沢栄一に纏わる自作の講談を披露した。京子先生の渋沢栄一伝を聴くのは、今回が二回目。前回も熱い口演だったが、今回は京子先生の渋沢栄一愛が一段と増していると感じた。
前回は青春編ではなく、パリで見たもの聞いたもの編で、パリ万博のために渡航したときのエピソードから、そこで出会った欧米の経済や社会の仕組みを「合本主義」という言葉で日本に導入しようと奮闘する様子が描かれていた。

今回は、血洗島村での幼少のころの生活から、青年期に遭遇した武家階級からの屈辱的な出来事によって立志の志を立てるあたりまでを中心に描く。
大河ドラマの題名「青天を衝け」にもなったことで有名となった渋沢栄一自身が詠んだ漢詩の「内山峡」を朗々と格調高く吟じて聴かせてくれた。渋沢栄一が19歳のときに、従兄弟の尾高惇忠とともに信州へ旅した際に、佐久の名勝内山峡で詠んだとされる漢詩。青年の志を格調高く詠んだもので、これは漢詩の知識がないと詠めないもの。当時の栄一青年が、勉学に勤しんでいて博識の高さを伺わせる漢詩なのだ。
この漢詩を吟じるときの京子先生の引き締まった表情と力強い発声は、何よりも栄一青年の気概を強く伝えてくれたのだ。また、この漢詩を現代語に訳して紹介し、渋沢栄一の心情をより分かり易く伝えてくれた。

京子先生は渋沢栄一の伝記や資料をよくよく研究されて、まさに、見てきたように史実を楽しく聴かせてくれた。渋沢栄一が生涯かけて日本に普及させたかった経営哲学などを、エピソードを紹介しながら分かりやすく、かつ楽しい笑いどころも多い講談に仕立て上げた。
なかでも、道徳と利潤は事業において両立しなければならないという経営哲学は、渋沢栄一が偉人たりうる核心部分だ。聞きなれない「合本主義」という言葉を、何度も何度も繰り返しながら、その意味や概念を物語の中で分かりやすく伝えてくれた。京子先生が渋沢栄一に対して尊敬の念を抱き、強く心酔していることを感じさせる一席であった。

挨拶 井上潤(渋沢資料館顧問・前館長)
京子先生はご自身の終演後、客席から井上先生を舞台へ招く。井上先生は、今は渋沢資料館の顧問であり、長らく館長を務めておられた方で、渋沢栄一に関する著作もある渋沢栄一研究の第一人者。
その井上先生が京子先生の講談を絶賛。その素晴らしさにご自身の研究記事と比べて歎き、会場の笑いを呼ぶ。専門家のお墨付きも貰った京子先生の渋沢栄一伝なのだ。

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