『月の妖精』 前編
月の光が空から降り注ぐ。白い光が全てを照らす。草も木も、遠くの山も、昼間とは違った顔を見せるその光景は、夢の中にいるような、世界がまるで絵画の中に収まってしまったかのような神秘の色で満ちている。僕の大好きな月夜の景色。
小さいころから、月を見上げることが大好きだった。月も、僕を見ているような気がした。月のまわりの星たちが、お月様を守っているように見えて、僕もいつか死んだら星になって、お月様のそばに居たいと思った。出来るだけお月様の近くに・・・。
柔らかい風が髪をくすぐって、我に返る。微かな夜の音。虫たちが草のベッドで寝息を立てているみたい。
──おい、赤髪。
そう呼ばれていた頃が、ずいぶん昔のことのようだ。町を出て、まだ一週間だというのに。
──赤髪、お前んち、引っ越すんだってな。
長引く隣国との戦争に、ママと僕は二人が暮らす家を離れて疎開先へと旅してる。戦火が僕らの町をも脅かすようになったからだ。
都会には蒸気機関車なんてものがあって、レールの上をすごく速く移動できるそうだけど、田舎の旅はそうはいかない。馬車に乗るか、馬車のないところは自分の足だけが頼り。大変だったけど、もうすぐそれも報われる。明日の朝この宿を発てば、お昼過ぎには着くだろうってママが言ってた。疎開先は、東部の小さな町。ママは知り合いをツテに、仕事も紹介してもらえた。近くに学校は無いらしいから、僕も何か仕事を見つけるつもり。どんな生活が待ってるのかな・・・。
頭の上にゆったりとはばたく数羽の鳥が映る。
空はいいな・・・。何処へでも飛んで行けるし、空には戦争も無い。何より、お月様に近い。空に住むことができたらいいのに。背中に大きな羽根が生えて、雲の上に住めたら。
空想の中で、ママと僕が乗る馬車に羽根が生えた。空気の階段を登るように、馬が軽やかに空を走っていく。あれに乗れば、空の世界に行けるだろうか。
もう一度風が吹く。
宿に戻って寝ないと。僕はその場に立ち上がった。振り返ると、宿の窓に月の光が差していた。
『月の妖精』
夢を見た。
どんな夢かは忘れてしまったけど・・・楽しい夢ではなかった。なんだか背中が重たい。夢の世界の空気が、まだまとわりついてるみたいな気分。
簡素な鉄パイプ枠のベッド。すぐ隣で寝ていたママが目を覚まし、まだ重たい瞼を開けきれないまま体を起こした。
「よく眠れた? アルテス」僕の返事を待つ前に、おでこにキスをして付け加える。「天気はどう?」
「晴れだよ、ママ」
身支度をして、ママと僕は宿屋の前で荷馬車に乗った。馬車はママが昨日のうちに手配をしていたもので、男の人が馬を操っている。当然、羽根は生えていない。旅の荷物を積み込み、小さな町を出発すると、まわりの景色から建物の数が少しずつ減っていき、最後には山や野原だけの田舎風景になった。ガタゴトと車輪の金具が揺れる音。秋の草の匂い。大きく息を吸って、意味もなく「わーっ」と叫んでみる。
「もうすぐだ」
お日様が頭の真上に来る頃、手綱を引く男の人がそう言った。すると間もなく殺風景な野原の中に、隣同士に並んだふたつの家が小さく見えてきた。家を囲むように生えている背丈の高い草が枯れて、ところどころ黄色や茶色になっている。あれがママと僕の家・・・。ずいぶん古そうだ。それでも贅沢は言ってられないな。
「雑草を刈ることから始めないといけないわね」
ママの独り言が「さぁ、忙しくなるわよ」と言っているように聞こえる。
そのとき、隣の家の敷地に誰か人影が動くのが見えた。
「お隣は空き家って聞いてたけど・・・誰かしら」
馬車を降りて、少しだけの荷袋を降ろしていると、人影は若い青年であることがわかった。長身で、男にしては少し長い髪、爽やかな活気が感じられる身振り。大家さんの息子だという。「古い家だけど、とても頑丈だよ」と言いながら、彼はニスタと名乗った。敷地の裏手にある倉庫でいつも作業していて、そこに頻繁に寝泊まりに来るらしい。僕よりもかなり年上に見える、ハキハキした気さくなお兄さんだ。
「僕はアルテス。どうぞよろしく」
僕は、少し控え目な声で挨拶をした。
「うちの倉庫、見に来ないか? アルテス。いいものがあるんだ」
「ありがとう。でも僕、引っ越しのお手伝いしないと」
ママの方を振り返ると、〝いいよ、行ってきな〟とジェスチャーしてくれた。それを見て、僕より先に走りはじめるニスタ。僕は慌てて彼の背中を追った。
倉庫はとても大きくて、全体が紺とグレーの中間のような色で塗られている。だけど、端っこの塗装が剥がれて中の鉄板が見えていたり、ところどころの傷が錆びを作ってたりして、ずいぶん使い込まれていることがわかる。倉庫の正面に回り込み、大きな引き戸の入り口が全部開いているのを見て、僕は四角いクジラが大口を開けている姿を想像した。本物のクジラなんて見たことはないけどね。クジラの中を少しだけ覗くと、僕には何に使うのかさっぱり見当つかないような器具が、たくさん散らばっている。
ニスタが奥から何やらデカいものを持ち出してきた。僕が両手を広げたくらいに大きい、十字架のような形の、薄い板?
「見てて!」
優しくそっと、そして勢いよく、〝それ〟はニスタの手から放たれた。
飛んだ!
ニスタが走りだす。僕もそれを追いかけて走る。あっと言う間の出来事。遮るものはない、遠くまで広がる草地を僕の靴が蹴る。ニスタは、大きなトンボのように見えるその板から、真剣な眼差しを離さない。そんな彼を見て、僕は思わず心の中で叫んだ。もっと飛べ! 風よあいつをもっと飛ばせ、と。ニスタがチラリとこちらを見た。もしかしたら声に出てしまっていたかもしれない。でもやったぞ、トンボはグンと高さを増して、いっそう勢いをつけた。
トンボが地面に降りたのは、四角いクジラがずいぶん小さく見える、丘の斜面の手前だった。ニスタも僕も息が切れて、草の上に仰向けに寝転んだ。
ハァ、ハァ・・・ハァ・・・。
「それ、何? 機械のトンボ? すっごいね」
「飛行機っていうんだ。ここまで飛んだのは新記録だよ」
ニスタも僕も空を仰いだまま。それでもニスタの、自慢げで嬉しそうな表情がその声から想像できた。・・・ヒコウキ、ていうのかぁ・・・。
「君が途中で念じたからさ。風を操るなんて、驚いたよ」
え? やっぱり声に出てたのかな。でも・・・。
「風を操るなんてこと、出来ないよ」
「あはは。じゃぁ、風と友達なのかな?」
ニスタが飛び起きて、二人揃って倉庫に向かって歩き始めた。
風と友達・・・。確かに僕は、いつも風と一緒にいる。それに不思議な特技も持ってる。それは天気を予想すること。目を閉じて風を感じるとわかるんだ。この風が雨を呼ぶのか、冷たい風を呼ぶのか。これって、風と友達ってこと? でもさっきの飛行機とは関係ないよね。
歩いて戻っていると、本当に遠くまで飛んだんだってことを実感する。飛行機を追いかけて走ったときはアッという間だったのに、クジラ倉庫はまだまだ遠い。歩きながら僕は、空を飛ぶことが憧れだってことをニスタに告げた。特に夜空に、月の光を浴びながら飛びたい、って。するとニスタは空を見上げて、たぶん夜空を想像しながら言った。
「夜の空ってさ、美しくもあり、広大な黒い雲の渦に独りポツンと吸い込まれて行きそうで、ちょっと怖くない?」
「うん、夜の雲は神秘的すぎて怖い。そう思うこともある。でもお月様が照らしてくれるから。僕の体を。って考えると安心する」
「そっか。月の光は優しいもんな」
夢みたいな話にまともに答えてくれて、僕は嬉しさが顔に出てたと思う。ニスタは続けた。
「俺、人の肩甲骨は羽根の根元のなごりなんじゃないかって信じてる。・・・肩甲骨って、わかる?」
「うん」
「昔むかしの人間ならできたのかもしれないな、空を飛ぶこと。でも今の人間には羽根は無いから、その代わりになるものを作ってやろうと思って、いろんなこと研究して、俺は飛行機作りを始めた」
ニスタは十二歳の時から、いろんな学問を本格的に学んできたという。僕と同じ歳だ。今はなんと、人間が乗れる大きさの飛行機を作ってるらしい。自分の力でイチから設計を勉強して、ここまで来たんだって。すっごい努力だっただろうなぁ。僕も空への興味はあったけど、いつも〝羽根が生えたら〟なんて念じてた。まさか機械で作っちゃうなんて思いもよらなかったな。
「あれが、今作ってる〝本物の〟飛行機だ」
倉庫が近づいて、ニスタがクジラの口の中を指差した。その先に視線を凝らすと、僕は大大大大、大衝撃を受けた。信じられない光景に、歩いていた足が一瞬止まる。さっき飛んだトンボとは比べ物にならないくらい大きい飛行機の骨組みが、そこにあった。オバケトンボサイズだ。
走って倉庫の中に入り、近寄ってみる。
「これに乗って飛ぶの?」
外から入る銀色の光が、機体の曲面に反射する。
「ああ。風に乗るだけじゃない、鳥みたいに好きな方角に空を飛べる」
僕の思考は、ここで停止。感激しすぎて、頭の中は真っ白になった。ぼーっとして・・・頭がおかしくなったのかな、どこからか女の子の声が聞こえる。
「噂は本当だったのね。とても素敵な飛行機になりそうじゃない」
ニスタも僕も、声の方に視線を向けた。倉庫の入り口だ。女の子が立っている。ここからだと逆光で、ほとんど人影にしか見えないけど、確かに女の子だ。
「本当に一人だけでここまでやったの?」
「誰だ・・・?」
ニスタは女の子の問いには答えなかった。彼女も、ニスタの声が耳に届いていないかのように倉庫の中に入ってくると、飛行機を見上げながらゆっくりとそのまわりを歩いた。左右にふたつ綺麗に丸くした髪、細かい刺しゅうの模様がついた淡い色のスカート。まっすぐ伸びた背筋と歩き方に気品を感じる。
「素晴らしいわ。美しい形。・・・信じてここまで来てよかった」
言い終わる頃には、女の子はニスタの正面に立っていた。ニスタが小さな声を出す。
「な、何だよ」
「あたしと組みましょ」
何のつもりでそう言われたのかわからず、ニスタは面食らっている。組む? 何を? 僕は、ハラハラしながらそこにいることしかできない。
「ど、どういうことだ」
「プロペラ、レシプロエンジン、ツーストローク」
何のおまじない? 女の子のまっすぐな瞳とその言葉に、ニスタの表情が変わった。魔法にかかったんじゃないかな、そう思えた。気をつけてニスタ・・・。
次に女の子は布バッグを差し出しながら、一瞬だけ口元を微笑ませて最後の言葉を言った。
「設計図」
ニスタはバッグを受け取って、その中身を作業台の上に広げると、大きな紙の束が現れた。ひとつ紙をめくるたび、感嘆の声を上げている。緻密で完璧な、何かの設計図らしい。それを一枚ずつめくりながら、ニスタが視線をチラリと女の子に送る。
「これ、どうしたの? まさか、君が?」
「〝まさか〟は余計よ。あたしが描いたの。どう? それ軽量化できる?」
「・・・でも、なぜここに? どうして俺と組もうと?」
「あなた、いろんな研究家や発明家を訪れては飛行機に関する情報をあさってるでしょ? 研究家の間では有名よ、子供が飛行機作りの真似事をしてるって。ニスタ・リリエンタールさん」
「・・・」
「なぜ真似事って言われるのか。それはあなたのアイデアが斬新すぎるから。大人には理解できないのよ。でもあたしはそれに賭けたの。その設計図、それを飛行機に搭載すれば恐らく世界初の試みよ」
ニスタの表情は真剣だ。決断の材料を探してるのか、彼女への返事はまだしない。とても僕が口を挟める雰囲気じゃない。女の子は少し肩を落として高揚した気持ちを抑えると、ため息のような呼吸をしながら言った。
「それにね、〝夢〟を見たの」
夢!
夢・・・、夢? 夢なら、僕も見たんだ・・・僕は、今朝見た夢を思い出そうと頭が一杯になった。あれは、そう、遠い遠い遥か昔の、まるでおとぎ話のような・・・。
「王様、お知らせがございます」
石の廊下を走ってきた使いの者が、ひざまずきます。
「おお、産まれたのか。我が子が」
「はい、そそそれが王様、」
使いの者の膝がガクガクと震えはじめました。怖くて王様の顔を見る事ができません。
「なんだ? 言ってみよ」
「元気な三つ子が、お産まれになりました。ふふふふたりが男の子で、ひ、ひとりが女の子でございます。ですが王様・・・」ゴクリと唾を飲みます。「男のひとりには、触角が無いのです」
触角・・・。僕は知らず知らず閉じた瞼の裏に、今朝の夢が突然蘇ってきて驚いた。ハッと目を開ける。女の子がしゃべっている。
「遠い遠い昔の夢。だからここに来たの。・・・というより、導かれた、のかな」
女の子の言葉を聞くと、ニスタの目玉がまん丸に大きくなって、今度は女の子をまじまじと見つめた。何か感情が高ぶったみたい。女の子は立ったまま、平然とニスタに視線を合わせる。ニスタはまるで舐めまわすように、最後にはキスでもするんじゃないかというくらい女の子に近づくと、最高に真剣な眼差しを放ちながら言った。
「すごい設計図だ。軽量化もやってみせる。でも俺は、世界初にはこだわっちゃいない。とにかく飛ぶ、安全に。それだけだ」
女の子は同意して、右手を差し出した。ニスタがそれに答える。握手だ。倉庫内はそれまで真空だったかと思うほど張りつめてた空気がゆるみ、穏やかさが僕ら三人を包み込んだ。
彼女の名前はヴィーナ。十五歳。物理や電気工学っていう難しそうな学問が大好きで、小さい頃から大人に混じっていろんな勉強会に参加してきたらしい。そうするうち、プロペラという技術に着目するようになって、それを空飛ぶ乗り物に使えないかというアイデアがひらめいた。プロペラを飛行機に搭載することで、推進力を上げ、飛行距離や高度を伸ばせるのではないか、そういう研究に力を入れてきたそうだ。
「それがね、」
ヴィーナが不服そうな声を出す。
「パパったらさ、あたしの研究成果を自分の会社に提供しなさい、なんてことを言うのよ。もっと馬力を上げれば蒸気船のスクリューに応用できるから、とかいろいろね。あたし自身のためにやってるんだから、提供なんてあり得ないよ。ホント、自分のカンパニーを大きくすることにしか興味がないんだから、パパは。・・・そんなこともあって、家を飛び出してきたの」
世間では、いろんな産業が凄まじい勢いで発展してきていて。織物や製鉄、造船やエネルギー開発、いくつもの国が、それぞれの地域の特色を活かした産業を、めきめきと成長させているさなか。ヴィーナのパパの会社も、そんな活気の渦の中にいるのかなあ。
でも、突然家を飛び出してきたりして・・・。
「家族の人、心配しないの?」
「いいのいいの。〝しばらく旅に出る〟って置き手紙しておいたし」
ヴィーナが倉庫の外を見る。草地が秋の風に揺れる。
「それにしても、飛行機を作る秘密基地がこんな田舎だったとはね。あまりにまわりに家が無いから、途中で道を間違えたかと思っちゃったじゃない。ここじゃ宿も遠いわ。・・・ね、表の家は空家でしょ? 今日からあたしが住むわ。飛行機が完成するまで」
こんなふうにして僕たち三人は出会った。というより〝二人の天才の出会いを僕が目撃した〟というのが正しいかな。一緒に飛行機作りをお手伝いをさせてもらえることになって、僕は体じゅうの喜びで胸がはち切れそうなほど嬉しかった。
その日から僕は、飛行機の部品や材料の名前、組み立てに使う工具の名前などを憶える毎日を送った。寸法を計測する道具、鉄線を切る道具、木の板を削る道具、その道具を手入れする道具。どれも手に持つとずっしりと重い。なにしろ初めて手に取るものばかりだったから、憶えるのは苦労したけど、ニスタはひとつひとつ丁寧に説明してくれた。次第に「あれを取ってくれるかい?」と言われればすぐに体が動くようになった。
ヴィーナは飛行機が空を飛ぶしくみを教えてくれた。水の中を魚が泳ぐみたいに、空の空気の中を飛行機は泳ぐ。空気をスイスイとかわしながら、同時に空気の流れの上に乗っかりながら進むため、飛行機の翼は平べったくて広い。平べったい方が空気をスイスイかわしやすいし、広いほどたくさんの空気に乗っかることができる。
「空気をいかに利用するかが、飛行のポイントね」
頭では何となく理解できても、僕はそこまで。それをちゃんと機械で実現するところが、二人のすごいところだ。
「空気ってことは、風も?」
「そうねぇ。飛行にとって風は、味方にもなるし敵にもなり得る。風とうまくお付き合いすることが大切よ」
風かぁ。僕ならうまくお付き合いできるのに、飛行機だとどうすればいいんだろう。考えながら顔を上げると、倉庫の広い天井が見えた。太い木枠が組み合わさった一箇所一箇所に、ガッチリとした金具が取り付けられている。ほんの僅かにそれを揺らす風を感じて、僕は思わず念じた。風よ、飛行中はおとなしくしていて!
・・・いけない。また空想の中に入り込んでしまうところだ。現実的に考えなきゃ。飛行機完成のために、僕もしっかり知識を身につけるんだ。
引越先の家では、屋根裏を僕の部屋にしてもらった。藁を縛った束をいくつも重ねて、それを覆うように大きなシーツをかぶせて作ったベッド。部屋にあるのは、それと壁の小窓だけ。
木製のハシゴを軋ませて屋根裏部屋に登り、ベッドに体ごと飛び乗る。手足を広げて仰向けに。
「今日もクタクタだぁ」
小窓から少しだけ夜空が見える。
昼間僕が働ける仕事場も見つかった。仕事と言っても、町の材木屋さんで薪割りのお手伝い。斧を使って薪を割る。昼過ぎに行って、決まった数をこなしたら終わり。夕方には家に帰って来られる。もちろん帰って来たらクジラ倉庫に飛んで行くから、毎日が大忙しだ。
ベッドに倒れこんだまま目を閉じた。微かな藁の香りと、小窓から入ってくる優しい風を感じながら。
頭の中が霞んで、その向こう側に見知らぬ国の景色が見える。遠い遠い昔、世界のどこかにあった、たくさんの妖精たちが暮らす・・・国・・・スー・・・スー・・・。
スー・・・。
その国ではみんな、生まれたときは幼虫の姿をしています。緑色の皮膚に包まれて、コロコロと動きまわります。触角を大きく動かすのは、好奇心旺盛だからでしょう。時が経つとサナギになって、最後の最後には美しく透き通るような羽根を持つ大人の人の形になるのです。
昔々、大昔の、ある日のお話。女王さまに、お子さまがお産まれになったのですが・・・。
「触角が、無い・・・?」王様はたちまち、お顔の色が困惑でいっぱいになりました。「シシルナの様子はどうだ」
「おおおおお妃様は、産後でございますので、まだようやくお話ができる程度と存じますが・・・」
「そうか、うぅむ。すぐに話したい。参るぞ」
王様は、自分の巨体を重々しく持ち上げ、ドシンドシンと女王さまがいらっしゃる部屋に向かって歩き始めました。
その足音は、石の宮殿を微かに揺らし、女王さまの部屋にも伝わってきました。
「王様のお成り」
お付きの誰かが言うと、大きな石のドアが開きました。
「王様・・・」
女王さまがベッドに寝たまま王様を見上げます。同じベッドのシーツの下には赤ちゃんの体が三つ横たわっていました。
「無事に産まれました」
「シシルナ、赤ん坊をよく見せよ」
「王様・・・」
「触角が無いばかりか、この子の皮膚は全身真っ赤ではないか。いずれは月の精になる子だぞ。月と会話し、その光を地上に届ける重要な役目を担う妖精だというのに。ああなんということだ。そなたも心中、悲しみで溢れているであろう。これでは国の民も不安になるに違いない。いっそ・・・」
王様の表情を見て、傍らにいた侍女のサニャが遮りました。
「王様、恐ろしい考えはお捨てくださいませ」
控え目ではありましたが、切なる想いが強く伝わってきました。しかしその言葉を聞いてもなお、王様は続けました。
「双子だったということにはできぬか」
残酷な言葉でした。ですが王様としては一国の行く末を案じて悩み悩んだうえでのお言葉でした。この国は妖精の国。月の精をはじめ星の精、雲の精、雨の精、風の精、数えればキリが無いほどたくさんの妖精が住んでいます。彼らがきちんとその役割を果たせるように統制するという大変重要な責務を、王様は担っているのです。ひとつでもおろそかになれば、自然界の調和が乱れ、妖精の国はおろか人間界にも影響を及ぼしてしまいます。
シシルナは、王様のお気持ちをじゅうぶんに察していましたが、その言葉をそのまま受け取るわけにはいきません。愛する我が子の一人だけが、どこかにその身を隠しながら生きて行かねばならぬなど考えられないことでした。シシルナは横になったまま、凛とした眼差しで王様を見つめると、しっかりと丁寧にこう言いました。
「王様、肌の赤い子は大業を成し遂げる英雄になる、という伝説がございます。内には可能性を秘めているのです。この子たちは皆いずれ、誇り高き月の精になるでしょう」
眉間にシワを寄せて表情を変えない王様に、今度はサニャが援護します。
「王様、赤い子の伝説は王族の〝女たち〟に伝わる言い伝えです。ですから王様は、ご存知ないのでしょう。私も亡き皇太后様より教わったのです。必ずやこの子たち三人を、立派な月の精に育ててみせましょう」
サニャもシシルナも、真剣そのものでした。そして、王様の次のお言葉を待ちました。じっと、じっと、王様が思案をめぐらせる表情をみつめながら。時が止まったかと思えるようなその場の沈黙を破ったのは、赤い肌の子の鳴き声でした。
「クゥー」
その子に手を伸ばす王様。
「この子にとっては、試練の道になるかもしれぬぞ・・・」王様が、絞り出すように声を出しました。「早う、乳を与えてやるがよ
そう言って、王様はお部屋を出ていきました。
「ありがとうございます。王様」
閉じた扉に向かって、シシルナは言いました。そして侍女サニャと一緒に、涙を流して喜びました。
「サニャ、よくぞ助けてくれたわね。本当に本当に、ありがとう。この恩、決して忘れないわ」
この恩、決して忘れないわ。
あ。・・・夢か。
ここに越して来てから、頻繁に見るようになった、この夢。目覚めた後も胸の奥が重たくて、目の前が何かモヤで曇ったままのような、そんな夢だ。
気分を変えたくて、僕は小窓から顔を出した。ちょうど顔だけが外に出るくらいの小さな窓。朝の空気を大きく吸い込む。
よし。今日もやるぞ。
ニスタの飛行機は、急ピッチで設計変更が進んでいる。完成形が見え始めていたものにプロペラを付けることになったから、機体の重心を計算し直してバランスを整えるために何度も実験が必要だった。でも、ニスタが言うにはプロペラがあったほうが二倍も三倍もすごい飛行機になるんだって。
その日、僕が薪割りの仕事から帰ってくると、ニスタとヴィーナが喜びの声を上げていた。
「アルテス、やったぞ。プロペラ搭載の見通しが立ったよ」
ニスタの小さなトンボ飛行機に、簡易的なプロペラをつけて飛ばす実験が成功したそうだ。
三人は輪になって、これからの計画を話し合った。計画は主にニスタが立てて、ヴィーナと僕がその内容を理解する。項目ごとに分けてそれを繰り返すと、最後には僕の頭の中にも、飛行機完成までの道筋がイメージできた。
胸がドキドキしすぎて、僕は頭まで熱くなった。順調に行けば、冬をひとつ越えた頃には完成する!
ヴィーナが何かを持ち出した。
「ね、これ、今日の日の記念よ。飛行機の材料の余りもので三人お揃いのペンダントを作ったの」
親指ほどの小さなペンダント。綺麗な楕円形で、木枠の真ん中に金属板が埋め込まれている。木の部分は、樹液を固めた塗料で光沢のある煉瓦色に塗装されていて、高価なアクセサリーのよう。金属の部分が薄く玉虫色に輝いてるためか、三つ微妙に少しずつ色が違って、形は同じでもそれぞれに個性がある。ヴィーナは精密な機械の設計図を描くだけあって、やっぱり手先が器用なんだな。
「綺麗だね。ペンダントを作ることを思いつくなんて、やっぱりヴィーナは女の子なんだなあ」
「正真正銘の女の子よ、アルテス」
ヴィーナの目が、ちょっとだけつり上がる。僕は肩をすぼめた。
「でもね、綺麗なだけじゃないの。これにはちょっとした仕掛けを施してあって」
「仕掛け?」
「うん。どんな仕掛けかは、飛行機が完成するまでのお楽しみだから、それまで大切に持っていて」
これを聞くと、ニスタが突然声を上げた。
「なぁんだ、これか! 設計図にあった、あの・・・むぐぐ」
謎が解けたように指を鳴らすニスタの口を、ヴィーナが慌ててふさぐ。
「待って! ニスタは仕掛けが分かっても絶対に喋らないこと!」
ヴィーナはそう言って、二人にひとつずつ、丁寧にペンダントを手渡した。
「はい、ニスタ。そしてこっちはアルテスに。アルテスの赤い髪によく似合うと思うわ」
「うわぁ嬉しいな。ありがとう」
あれ・・・アカイカミによく似合う。・・・僕、赤い髪と言われても嫌じゃなかった。
このあとニスタが「今日はこれで解散」と言った。それを聞いた僕は、勝手に体が立ち上がって「じゃあ明日も頑張ろう」と倉庫の入り口にむかった。引き戸を両手で開けようとすると、ヴィーナが小走りにやってきた。ニスタを振り返って、「また明日ね」と明るく声を投げる。僕の目の前で、彼女の口元からほっぺたの白い肌が、踊るように弾んだ。二人で引き戸を開けて、外からもう一度ニスタに手を振った。
引き戸を閉めると、ヴィーナが僕に言った。
「最近、夜寒くなってきたね」
僕は、二人の白い息の向こう側にヴィーナの生え際の髪が揺れているのを見ながら「うん」とだけ答えた。
僕の胸に幸せが満ちた。
「ママ。これ、ヴィーナが三人お揃いのペンダントを作ったんだ」
「素敵ねぇ。手作りのペンダントなんて」
「ヴィーナが、僕の赤い髪によく似合うって」
その言葉を聞くと、ママの表情はゆっくりと変わって、さっきとは違う笑顔になった。両肩の力を落として、僕の心に直接向き合ってるみたいな穏やかな笑顔。
「僕、赤い髪って言われても嫌じゃなかった」
今までは、嫌だった。べつにそうやっていじめられたわけじゃない。だけど引け目を感じてることを目印のように言われて、いい気持ちはしなかった。
「気持ちがこもった言葉だから、かな。素敵なお友達になれたのね。ママも、とっても嬉しい」
僕は屋根裏部屋で、ペンダントを月の光にかざした。何も考えない時間が通り過ぎる。目を閉じると・・・いや、閉じなくても頭の中に浮かんでくるヴィーナの顔に「ありがとう」と言った。
今日の日の記念・・・。僕にとっては別の意味でも記念日になった。
このペンダントを、僕は一生大切にするだろう。
つづく
<中編へ>
https://note.com/kuukanshoko/n/n27d8f6235b99
<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3