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『七色の牙』


「象だ! 南東の方角に象!」

 叫び声とともに、村じゅうに鐘が鳴り響いた。
 村は小さな規模の集落で、石造りの簡素な建物が乾いた土地に散在している。砂漠の村──イヴォイ族の村。その中心にある塔の一番上から、見張り番が十二回の鐘を鳴らし終える頃、眼下に一人の少年が駆けていくのが見えた。ルトゥだ。日差しを遮るための白い布を頭に、そして体にも大きな布をまとっている。なびく布。その下から覗かせる、美しく引き締まった浅黒い肌。まるで空気の塊を次々と蹴り上げるように、ルトゥは軽やかに砂漠地帯へ進み出た。
 「頼むぞ」「がんばれよ」といった声が背中に飛ぶ。その中にはルトゥの妹の声もあった。〝水番〟として走る兄の姿を、妹は誇り高く思っていた。

 ──期待に応えたい。

 ルトゥの口元に、固く力がこもった。
 象が向かう先には湧き水がある。
 象は水の匂いをかぎつけ、涌き水のある場所へ向かっているのだ。やがてその巨体を揺らし、恵みの水を吸い上げ、思う存分に自らの体を潤すだろう。ルトゥは一刻でも早く象に追いつき、象が湧き水を枯らしてしまう前に少しでも多くの水を汲み上げる。〝水番〟はそういう役目を担っている。およそニ十日ぶりの象だ。これを逃すと、次はいつどこで湧き水が吹き出るかわからない。

 ──象よ、導き給え。水の場所へ。

 ルトゥは百歩の足を踏み出すたびにひとつ、身につけた布の内側から薄い木片を取り出して地面の上に落とした。また百歩走るとひとつ。木片は塗料で青く塗られており、砂で覆われた大地によく映える。この木片を頼りに、後発の荷車隊がルトゥを追うのだ。荷車隊は水が湧き出る地点でルトゥと合流し、出来るだけ多くの水袋を荷車に乗せる。そういう連携だ。
 ルトゥと象の距離は次第に縮まり、象の姿が目前に迫ってきた。見上げるほどの巨体だ。尻尾の位置でさえ、村の塔の高さを優に超えている。象の一歩はルトゥの何十歩にもあたる。四本足の歩みに追いつくために、ルトゥは歩幅を緩めることなく走った。
 象の体をよじ登り、背中に乗ることも体力的には可能だ。そうすれば楽に移動できると、これまで何度となく考えたことはある。だがイヴォイの人間は象に触れることを良しとしない。象の行動に人間が介入することは、象の湧き水を感知する能力を弱めることにつながると考えているのだ。それに体に触れることで、もし象が怯えるようなことがあれば、今後この辺りの湧き水に象が集まることは無くなるかもしれない。そういう危惧もある。

 頬に触れる空気が、ほんの少しばかり湿気を帯びた。
 湧き水の地点が近い証だ。ルトゥが一気に象を追い越した。目を凝らしてその地点を探す。

 ・・・あった。

 太陽の光が、清らかに揺れる反射の波を作っている。いつ見ても美しい。
 ルトゥは湧き水に駆け寄り、腰に巻いた布を外して準備を始めた。布は広げると袋状になり、中に水を汲むことができる。その布を地面に置き、呼吸を整えながら、ルトゥは片膝を立てて座った。
 後ろを振り返ると、一緒に走って来た象がすぐそこに見えた。陽の光を反射したその牙の表面は、うっすらと七色に輝いている。ルトゥは、象が静かな喜びとともに乾いた鼻を湧き水に入れ、その体に大量の水を浴びせるのを待った。

「この地に導きたもうた水の使者に感謝を」
 ルトゥはそう呟き、象の体の乾きが十分に満たされたのを見届けて、ひとすくいだけ自分の口を潤してから、先ほど用意した大きな布袋を水の中に沈めた。自分の体が半分入るほどの大きい袋、持っていた六つの袋に次々と湧き水を汲んでいく。
 全ての袋が水で一杯になる頃、象は湧き出た水を飲みきってしまった。後に残るのは、湿った砂だけ。すると象は、また歩き始めた。その後ろ姿がみるみる小さくなる。
 ルトゥも村人も、象の生態については何も知らない。どこから来てどこへ帰るのか・・・ただ、水の湧き出る場所には象が集まる、知っていることはそれだけだった。

 後に残る静けさ。ルトゥも象もずっと無言だったのに、高揚した気分がいかにこの場の空気をざわめかせていたか。ルトゥは荷車隊の到着を待った。膝を抱えて視線を砂に落とす。手のひらを地面に押し付けると、湿った砂が肌にくっついた。

 どれくらいの時間が経っただろうか。ずいぶん太陽の位置が動いた。
 ・・・おかしい。もう到着していいはずだ。荷車を押しているとはいえ、のんびり歩いてくるのではないのだから。何か予期せぬ問題が起きたのかもしれない。ルトゥは立ち上がって、水の入った大きな布袋をひとつだけ引きずって歩きはじめた。荷車隊を待たずに一人だけで帰ることにしたのだ。残りの水袋は諦めるしかない。村の年寄りや子供たちの落胆した顔が思い浮かんだ。だけど、このままここで水袋を干上がらせるわけにもいかないし、ひとりでは大きな水袋をひとつ引いて歩くのが精一杯だ。
 ルトゥは来るときに落とした青色の木片を見つけた。これを辿って行けば、迷わずに村へ帰ることができる。なにしろずいぶん遠くまで走ってきた。この辺りはルトゥの知らない景色だ。ルトゥは顔を上げ、遠くの砂の上に次の木片を探した。
 これを何度か繰り返したとき、砂漠の中に何かが見えた。・・・男だ。
 遠目でもよその国の人間だということは分かった。砂と同じくらいに白い肌。使い古された小さな荷袋を肩に、そして手には長い鉄の武器を持っている。ルトゥにとって初めて見る異国の人間だった。村の長が言っていた。「鉄の武器を持ったよそ者には注意しろ」と。しかしこのまま見捨てるわけにはいかない。死んでいるなら別だが、生きていれば水の一口でも分け与えてやらねば。

 ルトゥは地面に軽く穴を掘り、男が手にしている鉄の武器と腰に下げているナイフをその穴に埋めた。どうやら息はある。他に武器を持っていないか、凝った作りの衣服の内側をまさぐった。すると外側のポケットからパラパラと木片が落ちてきた。青色の木片だった。
(なんてことだ。この男が木片を拾い集めたから荷車隊が行くべき方角を見失ったんだ。)
 この男のしでかしたことで、村へ持ち帰る水の量が袋ひとつだけになったと思うと腹が立った。とたんに、男の白い肌が憎らしいものに思えてきたが、もう起きてしまったことだ。ルトゥは丁寧に木片を拾い集めた。そして頭の布をほどき、仰向けの男の口の上に薄く覆いかぶせた上から、水袋の水を両手でひとすくいだけ流し込んだ。するとすぐに、男は言葉にならない声を上げて意識を取り戻した。自分に何が起きたのか思い出そうとするように遠い目をしている。
「気づいたか」
 語りかけるでもなく口から言葉が漏れたが、ルトゥは会話をするつもりも長居をするつもりもなかった。布を頭に巻き直し、出発の準備をはじめた。
 その様子を視界の端に見ながら、男は軽く頭を振り、次にルトゥを見た。
「助けてくれたのか。・・・ありがとう」
 男の流暢な発音に、ルトゥは驚いた。この男は我が村の言葉を操るのか。興味をそそられたが村の長の忠告が頭をよぎり、ルトゥは言葉を返さないまま立ち去ろうとした。しかし水袋を持つルトゥの歩みは遅く、男が次の言葉を投げかける隙はじゅうぶんにあった。
「俺の、銃を知らないか」
 男は立ち上がろうとしたが、体が思うように動かずバランスを崩してルトゥめがけて倒れ込んできた。ちょうどルトゥの足首に男の手が届き、男はその細い指に力を込めた。
「あれが無いと俺はとても困るんだ」
 ルトゥは男の手をふりほどこうとして、やっぱりやめた。自分が砂に埋めた鉄の武器を「無いと困る」と言われて少し気がとがめたのだ。そして切実な目をして見上げる男に言った。
「だがあれは人を傷つけるものだ」
 その言葉を聞くと、男の目は少し怒りの色を帯びた。立ち上がり、ルトゥに顔を近づけて凄んだ。
「人を傷つけるために持ち歩いてるんじゃない。それにナイフは単なる道具だ。最低限ナイフは要る。君たちも道具は使うだろう。そしてそれを奪われれば困るはずだ。俺の身にもなってみろ」
 砂に埋めたことを話すべきかルトゥが迷っていると、男はルトゥの視線の先を見つめ、何かに気づいたように這っていった。ルトゥが無意識のうちにさっき武器を埋めたところへ視線を向けていて、男はそれに感づいたのだ。よく見ると、その部分だけ地面の砂に手で叩いたような痕がある。
 気づかれたなら仕方ない。ルトゥは言った。
「僕は異国の人を初めて見たんだ。用心のためにやった」
「ああ。いいさ。ナイフが戻れば、それでいい」
 男は砂を掘ることに真剣で、ルトゥの弁明には興味がないかのようにあっさりと言った。まもなく男は鉄の武器を発見し、肩にかけ、ナイフを手に取り腰にぶら下げた。そして無言のままルトゥに近づくと、いきなり右手で握りこぶしを作り、ルトゥの頬めがけて振り上げた。すかさず一歩引き、左腕ではじき返したルトゥ。
「はん、運動神経はいいようだ。いいかボウズ、こいつは俺の命だ」男はルトゥの目を見据えたまま腰のナイフを軽く叩いてみせた。「助けてもらったことには感謝するが、今後は人のものを奪ったりするな」
 そこまで言われるならルトゥにも言い分があった。
「じゃぁこれは何だ」ルトゥは男のポケットから出てきた木片を握り目の前に差し出した。「これは僕らの生活そのものだ。水を得るための知恵なんだ。そっちこそ大切なものを奪った」
「お前のものだったか・・・」
 男は険しい顔のままそう言って座り込んだ。足が痛むのか、靴を脱いで履きなおしたりしている。ルトゥはこれ以上この男には関わるまいと、水袋を手にした。さよならを告げる価値のない出会いだ。ルトゥは無言で立ち去った。

 でも歩きはじめてすぐに思った。ここから先には道しるべの木片は落ちていない。男がずいぶんな数を拾い集めてしまったから。どの方角に歩くべきか・・・。狩の時はいつも集団行動だし、行動範囲もある程度地理を把握した場所だ。水番の時は象を見失わないことが最優先であるため、自分が何処を走ってきたかは、木片だけが頼りなのだ。
 ルトゥは仕方なく、勘を頼りに歩きはじめた。そのうち知った景色に出会うことを祈りながら・・・。
「迷惑をかけて悪かった」
 ふいに耳元で話しかけられてルトゥは飛び上がった。男が付いてきているなんて思いもしなかったから。だけどさっきの威勢はどこへ行ったのか、男は憔悴している。長い鉄の武器を杖のように持ち、痩せた体に喝を入れるかのように、力を込めて次の言葉を発した。
「イヴォイ族にそういう風習があることは知っていた。青色の木片は象に繋がる道しるべだろ」
 ルトゥは驚いた。一度男の顔を見たが、そのまま歩みは止めず、相槌も打たずに話を聞いた。
「そいつを見つけた時は、神に感謝したさ。ずっと象を追っていたからな。喜び勇んで次々と木片を拾い集めた。そしてとうとう俺は見たんだ、白んだ空と地平線の境に巨大な象の影を。『イヴォイの象は幻影だ』と誰もが言ったその象を確かに見た! だがその瞬間、足に激痛が走った。・・・気がついたらお前が目の前にいた」
 男は渇きのために倒れていたのかと思っていたが、そうではなかった。気になって男に足を見せるように言うと、くるぶしの上あたりが青黒く腫れ上がっている。思った通り毒のある昆虫に噛まれたようだ。ルトゥは男からナイフを借り、患部に大きくその刃をあてた。男は白目をむいて痛がったが、血液と共に毒の多くも体外に出ただろう。男が持っていた救急用の布を巻いてやると、気分は少し落ち着いたようだ。
「お前には二度も助けられた・・・いや、木片を落としてくれたことも含めると、三度目か」
 感謝されたところでルトゥは何も感じなかった。傷付いた一人の男の手当てをしたというだけであって、この男への特別な想いは皆無なのだから。むしろ木片を拾い集めて荷車隊を迷わせたような男を二度も救ったかと思うと、自分に腹が立った。ただ、次の問いはしておきたかった。
「どうして、象を追っている?」
 男はしばらく、ルトゥに視線だけを返した。その気持ちは読みとれない表情だ。
「・・・どうしても、必要なものがある」
 言うと、男は立ち上がり歩きはじめた。痛む足をかばうような歩き方だ。
 ルトゥは迷った。このまま男と一緒に歩くか、別の方角へ行くか。どちらにせよ、村へ帰る正しい方角はわからない。ならば、もう男とは別の道を進みたい、というのが本音だった。ただルトゥの胸の底にうごめく何かが、あの男から目を離すなと言っているような気がした。あの男、象を見つけて捕獲したり傷つけたりしやしないか、そんな心配が胸の中でわだかまっていたのだ。男にそんなもくろみがあるなら、絶対に阻止しなければ。水の使者に触れさせてはいけない。
 ルトゥが考え込んでいると、男が振り返り、低い声で叫んだ。
「来い。村へ帰るんだろ。それならこっちの方角だ」
 急にそう言われて、ルトゥは面食らった。・・・男は方角を知っていたのか。彼の言うことが本当なのかはわからないが、それを確かめる術もない。ルトゥは何ともスッキリしない気持ちのまま、男の後を歩いた。

 しばらく、二人は言葉を交わさなかった。ルトゥの数歩前を男が歩く。その前方に、白い砂と青い空だけが見える。そんな時間が過ぎていった。
 男の左足に巻いた布は、血が滲み出て真っ赤になっていた。少し休まないと、歩きっぱなしでは出血が止まらないのではないか。だが男は、見えない何かに引き込まれるようにその歩みを止めない。まるで、思い通りにならない足や体を脱ぎ捨てて、魂だけでも前に進みたい──そんな気迫さえ見えてきそうな後ろ姿だ。

「俺は、学者でな」
 ふいに男が口を開いた。歩きながら、前を向いたままだだから、少し張った声だ。
「いや・・・学者だった。娘が病気で入退院を繰り返しはじめた頃、もっと稼ぎのいい仕事に就いた」
「声を張ると疲れるんじゃないか。話は後で聞く」
 ルトゥは男の体を気遣った。だが男は続けた。
「イヴォイ族や、この辺りの土着の民族の研究をしていた・・・。太古の人類が持っていた超能力のようなものを、我々文明化社会に生きる人間はいつしか退化させてしまったが、イヴォイの民はそういった能力を未だ生活に役立てている、そういう研究だった。お前さんの村にも行ったことがある。もう十何年も前のことだが」
 ルトゥは水袋を握る手に力を込め、足を踏ん張って男のすぐ横まで追いついてきた。これで男は声を張らずにすむ。だがルトゥは不機嫌そうだ。なぜ男のために気遣いをしてしまうのか、という想いが顔に出ている。
 男は横目でルトゥをちらりと確認し、ポケットから小さな道具を取り出して見せた。
「こいつがあれば大体の方角は分かる。コンパスっていうんだ。後で使い方を教えてやる」
 ルトゥは、その小さな道具が男の指先でくるっとポケットにしまわれるのを眺めたあと、視線を男の横顔に移した。痩せてはいるが、目尻に食い込むように刻まれた皺が、なぜかたくましく映る。そして瞳は、やはりルトゥには見えない何かを見つめている。ルトゥはその視界に割って入るかのように言葉を投げた。
「なぜ、象を追っている?」
 男は相変わらず前を見据えたままだ。だが、眉か、瞼か、口元か、男のどこかの筋肉が微妙に動いて、その表情を変えた気がした。
「まさか、象を傷つけるつもりじゃないだろうな。その鉄の武器で。・・・もしそのつもりなら、僕が止める。村人の生活がかかってるんだ。水の使者には触れさせない」
 男がまたポケットに手を入れた。小さな入れ物から一枚の紙を取り出し、ルトゥに差し出す。
「娘だ」
 ルトゥは目を近づけてじっとそれを見た。
「あんたが描いたのか? 今にも動きだしそうな絵だ。学者を辞めて絵描きになったのか?」
「俺が描いたんじゃない。カメラっていう機械が描いた。見えるものを絵にする、そういう道具があるんだ」
 男は、ひと呼吸おいて続けた。
「娘は病気でな。ここ数年、寝たきりだった。医者も、治療法が見いだせないと頭を抱えるような病だ。体の内側の痛みは大きくなる一方で、ひどい時は手足をベッドに縛り付けて布を噛ませておかないと、その痛みに堪えられず・・・自害しかねないほどだ。来月、十五歳になる。生きる、死ぬ、の選択を自分で判断しても、おかしくない歳だ」
 十五歳・・・。ルトゥは自分の妹のことが頭に浮かんだ。
 妹のピヌも、もうすぐ十五歳になる。額に赤く成人の化粧ができることを楽しみにしている。二人は幼い頃に両親を失っており、他に肉親はいない。ピヌはいつも兄を慕い、ルトゥも自分が父親代わりと思い、ピヌに愛情を注いでいた。同じ十五歳・・・ピヌが病に伏している姿を想像してしまい、慌ててルトゥは頭を振ってその想像をかき消した。
「象の牙──」
 男は前を見据えたまま、体全体を使ってしゃがれた声を喉から押し出した。
「陽の光を七色に反射する象牙、その表面を削って粉にする。それが薬になるってことが、ある文献からわかった──ある日、医者がそう告げてきた。ただ医者からは『その象牙を見つけることは極めて困難だろう』とも言われた。古い文献で、象についての詳細な記述は無く、〝七色の象牙〟としか書かれていなかったからだ。・・・だが俺にはわかった、イヴォイの象だ、と。この土地の象は、その牙が淡い七色に見える。表面の特殊な成分が太陽の光をそんなふうに反射するためにな」
 話を聞くにつれ、ルトゥの目の前は真っ暗になった。今まで抱いていた不安が現実となり、覆いかぶさってきたのだ。一番聞きたくなかった言葉を男は吐いた。やっぱり彼は奪っていく。村から、大切なものを。ルトゥは水袋を握る手に力を込め、一気に男の前に出てその進路を遮った。
「やっぱりそうだ。あんたは象を傷つけようとしてる」
 男の足が止まった。
「なにも象の命を取ろうというわけじゃない。これは麻酔銃だ。象が眠っている間、牙の表面を少し削るだけだ。怪我など一切させない」
「水の使者に触れること、それだけでもやってはならないことだ。象たちを怯えさせてしまえば、二度と村に近づかなくなる」
「七色の牙を持つ象を水の使者と崇めるイヴォイの風習は、よく知ってる。それでもやると決めてここへ来た。誰に阻まれようと、必ずやる」
「ぐ・・・」
 ルトゥは歯ぎしりをした。こっちだって何十という世帯の村人たちの生活がかかってる。簡単に引き下がる訳にはいかなかった。
「話を聞け。数十年前、近隣の湖が干上がってから、イヴォイの村の水は、完全に象の習性に頼るようになった。そうだな?」
 突き放すように返すルトゥ。
「ああ、雨期以外は。だけど雨期なんて、一年のうちの、ほんの・・・!」
「まあ聞け。水が噴き出すのには理由がある。地下には水脈があるってことだ。雨期に降った雨はどこに行くと思う? 地下に溜まってるんだよ」
 男は諭すように続けた。
「イヴォイ族は、穏やかな気質で仲間内の結束が固い。我々には無い、野生で生きていく能力を持っていて、それを大切に受け継ぎながら暮らしている。それはとてもいいことだが一方で、よそ者を受け付けず変化を嫌う伝統主義的な面もある。よそ者から得られる知識は大きいぞ。外側との交流は村の発展につながる」
 発展・・・。
 ルトゥは、男が扱ういろんな道具のことを頭に浮かべた。尖ったナイフ、コンパス、絵を描く道具・・・麻酔銃。
「異国の協力を得て地下の調査をすれば、絶対に水は出る。貯水池を作って水に困らない生活を実現できるはずだ」
「・・・夢みたいな話、信じろというのか」
「ああ。現にたくさんの国が、そうやって水を得ている」
「だけど、ここで僕が決めることじゃない。村の長も民も、そんなことを許すかどうか」
 男は杖のように支えていた銃を離して、右手でルトゥの腕を握った。
「だからお前から皆に伝えてくれ。象以外にも村を救う方法がある、ってことを」
 ルトゥは男の眼差しを浴びながら、握られた腕の感触が村の仲間のものと何ら変わらないことを意識した。血の通ったふたつの腕、二人の肌と肌の間でざらついた砂が細かく動く。一瞬だけ、ルトゥの心に何かがよぎった。目の前の男が村の仲間だったら? 同じように行く手を阻むのか。病にふせる娘がピヌだったら・・・?
「すまんが歩きたい。立ち止まっていると目眩がする」
 ルトゥは象についての話が決着していないことに、苛立った。なにか色々とはぐらかされた気がする。
「おい」
 まだ話は終わってない、という気持ちが声に出た。
 男は反応せず、ルトゥの後ろにある何かに焦点を合わせて目を凝らし、眉をしかめている。そして視線はそのままで、少し腰を落とした。ルトゥも振り返り男の視線の先を見た。すると・・・。
 そこには象の姿があった。
 二頭の象がこっちに向かっている。また湧き水が出たのか。一日に二度も出るのは珍しい。ルトゥの知る限り初めてだ。どんどん近づいてくる象。男はそれに吸い寄せられるように、また歩行をはじめた。
 まずい。このままでは男は象を傷つけてしまう。
 二頭の象の大きさには差がある。恐らく親子だ。頭の形を見るに、大きいほうはメス。小さなほう──といってもかなりの大きさがあるが、仔象は母親を必死で追いかけている。七色に光る牙、それ以上に無邪気な眼差しがまぶしく映った。

(やっぱり許してはいけない。象を傷つけるなんて。)

 気づくと、男はある程度の距離まで象に近づき、砂の上に腹這いになり、麻酔銃を構えていた。そんな気迫で近づいては象に敵意を持たれてしまう・・・。慌ててルトゥが駆け寄る。もう水袋は手放した。
 二つの人影に、象も気づいたようだ。そしてその身に危険が迫っているということにも。
 あの巨体が暴れ出せば、人間なんてひとたまりもない。ルトゥは男の肩に手をかけた。
 危ないぞ、やめろ・・・そう言いかけた時だった。母象はその姿に似合わぬ俊敏さで大きく鼻を振り上げると、ルトゥと男に向かって、勢いよく地面に叩き付けた。大きな鼻息とともに、砂の柱が立ち昇る。

 空気が揺れる大きな音とともに、砂の柱が飛んできた。男もルトゥも、正面からそれを受け、一瞬息ができなかったばかりか、目や鼻や口に大量の砂を浴びた。目の砂は、かなり痛みを伴った。

 象に敵意をもたれてしまった・・・。

「あの距離から、この威力の鼻息か」
 男はそう漏らしたが、もう計画を実行することしか考えていない。砂柱にひるむどころか、かがんだまま膝で進み象に近づいた。ルトゥも後を追う。母象は仔象を守ろうと必死だ。近づいてきた脅威(ルトゥと男)に、またもや強力な砂柱を浴びせてきた。その瞬間、体が押し戻されるような圧力に息ができなくなる。
「無茶だ! あれを相手に牙を削るだなんて」
 男の進路を塞ぐようにして、ルトゥが叫んだ。男は体勢を立て直したが、虚ろな目を見開いたかと思うと、そのままバタンとうつ伏せに倒れた。
「おい!」と、ルトゥが男の体を揺らす。
 反応がない。砂が喉に詰まったか。流れ出た血液の量が多すぎるのか、それとも、体外に出しきれずに残った足の毒が、臓器まで浸透してきている可能性もある。
「おい、死ぬな!」
 ルトゥは男がかぶっている帽子を取り、さっき手放した水袋を視界に探した。あった。
「あんたが死んだら娘はどうなる? 待ってろ!」
 砂を蹴って走った。帽子いっぱいに水を汲み、はたと帽子を持つ手を止めた。何かを考えそうになって、・・・考えるのはやめた。今は衝動に従いたかった。それにあれこれ考える暇もない。すぐに男を振り返った。男が動かなくなったからか、幸い象は鼻息の威嚇をやめている。走って戻って、男の顔に水をかけた。
 男は目を開けてルトゥを認識したようだ。口をもごもごと動かしている。
「俺は必ずやり遂げる。あの牙の表面を削り取る。く・・・」
 男は体を起こしながらも、顔が苦痛に歪んだ。足の痛みはかなりのようだ。
「だが俺自身の体がもう、もたんかもしれん」
 男が胸から一枚の紙を取り出し、ルトゥに差し出した。文字が書かれてある。
「これが、娘が入院してる病院名だ。そしてこれが娘の名、コリーヌ・ラシェン。これが俺の名、アシル・ラシェン。文字は読めなくていい。俺が牙の削り粉を取ってくることに成功したら、すぐにお前に渡す。お前は村に帰って──」
 男は簡単に村の地図を描き、村から少し離れたある一点を震える指で差した。
「ここを目指してくれないか。できるだけ早く。ここに俺が雇ったドライバーを待たせてある。鉄の車が目印だ。そのドライバーに、この紙を見せろ。そして粉を渡せ。事情はお前から説明できるな。ドライバー単独で街まで運んでもらうよう、ここに書いておくから」

 男の気迫を前に、ルトゥは大きく唾を飲み込んだ。自分の命さえ危機に直面しているというのに・・・これが父親というものか。
 男の華奢な腕や足、張りの無い皮膚・・・ルトゥが想像する父親像とはほど遠い。さらに今は怪我と疲労でボロボロだ。でもボロボロになった隙間から垣間見える眩しいまでの固い意思は、ルトゥが持つ父親像を遥かに超えていた。
 紙を握らされ、知らないうちにルトゥの目は涙で滲んでいた。正直、何の涙なのか自分自身よくわからなかった。男はその涙をルトゥの承諾と受け取ったようだ。ルトゥも、もう、それでよかった。男がコトを成し遂げるのを見届けたかった。

 三発目の砂柱が飛んできて、姿勢を屈める二人。
「車の男は、イヴォイの言葉がわかるのか?」
「ああ、わかる、少しなら」
「そうか」
 こんな時なのに、安堵でルトゥは笑顔になった。男が言った。
「お前の、名前は?」
「ルトゥ」
「命の恩人だ、娘の」
 男の表情が緊張したものに変わって前を向いた。一歩踏み出しながら叫ぶ。
「仔象のほうならやれるかもしれん。行ってくる」
 すかさずルトゥがそれを制した。男の肩を掴んで叫ぶ。
「いや。仔象に危険が及ぶとわかれば親は更に暴れだす。狙うなら母象の方がいい。僕が気をひくから、あんたはここからその隙を狙って」
 男はルトゥを見つめ返したが、何も言わず、ただ頷いた。男の眼差しに、ルトゥが尋ねた。
「本当に、象を眠らせるだけなんだな?」
「ああ。誓う」
 男の返事はゴムに弾かれたようにすぐに返ってきた。するとルトゥは走った。速い。男は目を見張った。なにせ今までルトゥの歩く姿しか知らなかったから。
 ルトゥは、象の尻尾を掴んで背中に登るつもりだ。まず象の尻の真下まで走る。その時、ルトゥを呼ぶ声が聞こえた。スールだ。彼は村の二番手の水番で、ルトゥが狩りなどで不在の時はスールが水番として走ることになっている。この象の姿を追ってきたのだろう。
「ルトゥ! 無事でよかった、心配したぞ。何が起きてるんだ!」
「スール! いい所へ来た。象の前にまわって、象の気を引いてくれ! 説明は後でする。仔象には危害を加えないことを母象に知らせてやりたいんだ」
 言い放ってルトゥは尻尾に掴まった。軽々と尻の上に登っていく。
 スールは、ルトゥの言葉にも驚いたが、目の前で起きている光景にも驚きを隠せなかった。
(象の、背中の上に乗っている?)
 それでもルトゥのただならぬ雰囲気に押され、言われた通り象の頭の方に向かって走り出した。象の背中からルトゥが声を張る。
「荷車隊は?」
「俺の班の荷車隊がこっちに向かってる! ルトゥの班も村に戻ってきてるが」
「そうか、安心した」
 ルトゥは象の頭の上に辿り着いた。そこで姿勢を変えて膝をつき、皮膚の皺を掴んでゆっくりと目頭まで降りていく。さっきまで麻酔銃を持った男を敵対視していた象だが、今は目の前にいるルトゥに興味を持っているようだ。困惑のためか大声を出している。ルトゥは象の左目の下あたりに手のひらを伸ばし、そっと皮膚を撫で始めた。
「水の使者よ、無礼をお許しください」
(少し眠るだけなんだって。仔象には手を出さないから。)
 心の中でそう呟いた時、象の瞳から力が抜けた。吐息と共に小さな声を漏らし、前足の膝を地面につく。そして次に、体全体を砂の上に横たえた。男の麻酔弾が体のどこかに命中したのだと、ルトゥは察した。

 思い返せば、ルトゥが男に一口の水を与えた時から、いや、男が毒の虫に刺された時から、もっと言えば、ルトゥが青い木片を置きながら走った時から、こうなる運命の道を辿ってきたのかもしれない。ゆっくりと倒れゆく象の頭から飛び降りながら、ルトゥはもう一度、象に許しを乞うた。そして感謝した。
(あなたは水のありかを示してくださるばかりか、今日はひとりの娘の命まで助けてくださった。)
 ルトゥの目にピヌの笑顔が浮かんだ。どうしても男の娘のイメージがピヌと重なってしまう。
 象の頭が地面に着く時、ルトゥもタイミングを合わせて着地した。象の巨体がバウンドする。

 するとその瞬間・・・地面に弾かれた象の巨体が消え、さらさらとした砂に変わった。一瞬の出来事だ。鼻も、耳も、頭も、体も、ルトゥが目にしている象の全てが砂へと変わった。すぐに大量の砂が、地面に叩き付けられ、砂煙が舞う。象の牙も、牙の形をしたまま砂に変わり、地面に落ち、砂煙となっていく。
 まるでひとつの山が崩れ落ちたかのような音とともに、砂の壁が一気に押し寄せてきたのをルトゥは走ってよけた。振り向くと、仔象がよけきれずに足を取られている。唖然としてその光景を見つめるルトゥ。立ちのぼる砂塵の中、スールの姿もあった。
「ルトゥ・・・」
 言葉尻を震わせるスール。ルトゥも、まだ頭の整理ができていない。何かしゃべろうとしても、何も口から出て来ない。頭の中にまで砂塵が舞い込んでいる気分だ。ルトゥが片手を、一瞬前まで象だった砂の山に突き入れた。・・・確かに砂だ。

 仔象が、大きな、哀しげな声を上げた。
 ハッと気づいて、ルトゥは男の姿を探した。砂煙の中、動く人影がある。人影に向かって、ルトゥは叫んだ。
「母象に、何をした!」
「言ったとおり、麻酔を打ち込んだ。それだけだ」
 仔象が砂を押しのけて、母親を探すかのように歩き始めた。それを見て、麻酔銃を構えなおす男。今度は銃口を仔象に向けた。
(やめろ・・・。)
 ルトゥは走って、やわらかな砂に足を取られながら、仔象の前に立ちはだかった。両手を横に広げる。
「やめろ!」
 男は、構えた銃ごしにルトゥを見つめた。睨み合う二人。しかしやがて視界の砂煙がクリアになった時、男が何かに気づいたようだ。銃を降ろして、小さな声で呟いた。

「・・・仔象に、影が、ない」

 砂漠にも夜はやってくる。まだ空は青いが、もうじき夕刻の太陽が西の空を橙色に染めるだろう。そういう時刻だというのに、仔象の足元には影が見えない。もちろん、ルトゥやスールには長く伸びた影が落ちている。
 男の体から力が抜けた。
(象はただの幻・・・。仔象に麻酔を打ったところで、母象と同じように砂に変わって、全てが終わる。やっと見つけた象だというのに・・・。そうだ、生きたまま、象を生きたまま捕えることができれば・・・。)
 男は銃を杖代わりにして前進しようとするが、うまく体が動かない様子だ。左足は、もう全く動かず引きずっている。
「たのむルトゥ、その仔象を生け捕りに・・・生け捕りにしてくれ」
 首を横に振るルトゥ。
「たのむ、俺に力を、貸してくれ・・・。娘の、ために」
 ルトゥがもう一度、首を強く横に振る。
「・・・いやだ」
 本心を言えば、ルトゥは心底、男を助けたい想いで一杯だった。娘の命の灯火を、消さないでほしかった。だが母象を一頭、いや、水の使者を砂に変えてしまった動揺が大きすぎて、ただただそんな大それたことをもう一度引き起こすわけにはいかないという気持ちが、今はまさっていた。
「浅はかだった・・・僕が浅はかだった。あんたの娘さんのためなら、水の使者に許しを乞えると思ってしまった。象が砂に変わったのは、あんたの麻酔銃が原因ではないかもしれない。原因は、僕が象の背中に乗ったり、皮膚に触れたりしたことかもしれない。だから、この仔象には、触れられない。僕は、もう、象には触れない!」

 辺りが静まった気がした。
 振り返ると、いつの間にか仔象は歩き始めていた。次第にその後ろ姿が小さくなる。
 男が声を上げて泣き始めた。地面に這いつくばって、何度も嗚咽を繰り返している。悲しみというエネルギーを体じゅうの皮膚から放ちながら。しかしそのエネルギーの行き場は何処にも無く、男の体をがんじがらめにし、あらゆる関節をも小刻みに揺らしている。
 男には申し訳ないが、せめて仔象を砂に変えずにすんだことで、ルトゥの緊張の糸は解けてきた。ルトゥはゆっくりと、うずくまって泣いている男の元へ歩いた。立ち止まって、何かを決意した顔になる。そして静かに声をかけた。
「象は、僕らを水の場所まで導いてくれる、優しい動物だ。あんたの娘さんのために、七色の牙を差し出してくれる象がきっと何処かにいる」
 ルトゥはかがんで、男の顔を覗き込むようにした。
「象を探す旅に出よう。僕を供にしてくれないか」
 本気でそう考えた。このまま彼を置いて村へは帰れない。それに、この男が目的を達成し、雄叫びを上げる姿を見たかった。象を見つけるまで村へは帰らない覚悟だ。そうすることがピヌの願いでもあるような気がした。
 だが現実問題、男の体調も心配だ。一度村で静養する方がいいかもしれない。

 体の震えが止まり、男がその頭をもたげようとした時、突然地鳴りが響いた。次の瞬間、大きな大きな岩の塊が地面から飛び出て、ルトゥを体ごと持ち上げた。何も考える隙は無かった。男は弾き飛ばされ、ルトゥは慌てて岩の表面にしがみついた。
 その光景を見ていたスールは、またもや絶句した。岩と思われた巨大なものは、象の頭だった。象は、その姿全体を現し、立ちのぼった砂煙がおさまると、伏せをしているような格好になっていた。ルトゥが頭の上から下を見下ろす。ちょうど象の牙の先のあたりに、倒れている男が見えた。男は、西日に手をかざしながら体勢を立て直し、何か思案を巡らせている。そしてルトゥをじっと見つめて口を開いた。

「わかったぞ・・・。象は、君たちイヴォイ族が見せる幻だ。・・・というより、君たちの願いを具現化したもの、ではないか」
 ルトゥは、男が何を言いだしたのかさっぱり解らなかった。
「君たちは『象が湧き水の場所に導いてくれる』と思っているようだが、それはたぶん勘違いで、湧き水のありかを嗅ぎ分ける能力があるのは、実は〝君たち自身〟だ。だが自分たちにそんな能力があるとは夢にも思わないイヴォイたちは、〝象〟という一種の偶像を作り上げてしまった」
 スールが一歩、前に出た。
「水が欲しい、という俺たちの願いが、象という幻を現実のものにした、ということか?」
「・・・そういうこと、だな。あくまで俺個人の見解だが」
 今度はルトゥが聞いた。
「じゃあこの象は・・・僕が七色の牙を願ったから、姿を現した、と?」
「そのとおり。・・・だろ?」

 さっきの象とは違い、この象は穏やかで、鼻先を揺らしては男の体をつついたりして遊んでいる。男は、逆光で眩しく影になったルトゥの顔を黙って見つめた。ルトゥも視線を返し、無言のまま、ゆっくりと頷いた。男への返事であると同時に「牙を削ってくれ」という意味でもあった。男が「いいのか」と聞き返し、ルトゥは黙ってもう一度頷いた。そうしてもらわなければ。男のために願った象なのだから。
 男は目の前の牙を手早く布で拭いて、ナイフでその表面を削っていった。ルトゥが見たこと無いような透明の袋に、牙の削り粉が落ちていく。
 背後からスールが、荷車隊の姿が見えてきたことを知らせた。
 男がルトゥに終わったことを告げると、ルトゥは象の頭から降りて男の目の前に立った。採取した削り粉は、ほんの少しだけに見えたが、薬にする充分な量が採れたようだ。
「ルトゥ、さっき説明したとおり、これをドライバーに渡してくれ。頼む。俺の足では、もう長く歩けない」
 それを聞くと、ルトゥは男に「待ってくれ」と目配せをして、スールに言った。
「スール、この男に肩を貸してくれないか。怪我をしてる。荷車に乗せて村の近くまで送って欲しいんだ。人助けだ。それで、村に着いたら俺の班の荷車隊をここへよこして欲しい」
 真剣な眼差しで聞くスールに、ルトゥはもう一言付け加えた。
「ここからいくぶん離れたところに水袋を五個置いてあるから、僕はそれを回収して戻るよ」
 ルトゥはさっき受け取った紙を男の手に乗せ、今度は男に顔を近づけた。
「あんたがその手で直接持って行ったほうがいいだろ」
 男は礼を言いたかったが、突然の喜びをうまく言葉にできないでいる。
「・・・俺は、俺は、ああ、幸運の持ち主だ、ルトゥ」
「あんたの名前をもう一度、教えてほしい」
「アシル、だ」
「アシル、またいつか、もう一度、会いたい」
「・・・ああ。いつか、戻ってくる」
 男が胸のポケットからコンパスを取り出した。
「使い方を教えると、約束したな」
「戻ってきたら、その時に教えてくれ。待ってる。・・・今は急いで」
 スールの肩を借りて、アシルが荷車へと向かった。ルトゥはその後ろ姿を見送った。手は象の鼻をさすっている。ルトゥ班の荷車隊が到着するまで、手は止めないつもりだ。
 荷車隊がアシルを乗せて動き始めた。その姿が小さくなる。行く手に、なぜかピヌの姿が浮かんだ。ピヌの十五歳の儀式を、アシルにも見て欲しいと願った。でも・・・そんなに早く戻って来れるはずがない。

 ふっと、象の鼻をさする手が軽くなった。象は役目を終えたと知ったのか、その姿を静かに消した。行き場を無くした自分の手を見つめるルトゥ。何かに気づいたように、笑顔になった。
 イヴォイの男の爪は、陽の光にかざすとその表面が七色に反射する。ルトゥは空高く腕を伸ばし、自分がイヴォイであることを誇りに思った。爪の表面には、ナイフで削られたような傷がついていた。


   おわり


<他のストーリーへのリンク>
https://note.com/kuukanshoko/n/n4251357b90d3


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