【現代空間論7】マクルーハン「メディア論」の限界/空間論
マクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼは、かつてメディア論の中心にありました。
しかし、インターネットが旧メディアを丸呑みしたことで、情況は一変します。もはやインターネットで伝送形式を問われることはなく、そこにあるのは空間という形式だけです。
メディアはメッセージである
同じ情報であっても、それを伝達するメディアが新聞なのか、SNSなのか、NOTEなのか、で情報の信憑性や意味づけが異なります。そして、そこで扱われている他の情報とのコントラストによっても意味内容は大きく変わります。
私たちは時と場合に応じて固定電話、携帯電話、SNS、オーラル会話というようにメディアを使い分けています。DMではなく、直接会話した方が効果的という場合もあります。
このように通常、メディア(伝達形式)は、メッセージ(伝達内容)に比べて二次的な意味しかありませんが、あるメディアを選択することが、決定的な意味を持ってしまうことがあります。
マクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼは、このことを示しています。メディアの本性は「伝達形式」にあり、伝送しているメッセージ以上に、その伝送形式こそが社会に作用するという主張です。携帯は携帯として、テレビはテレビとしての固有の伝達形式こそが、メディアの本性であることを物語っています。
背景にある「人間拡張の原理」
背景には、メディアは人間の肉体機能の拡大された延長というマクルーハンの考え方があります。メディアが技術的発展を遂げて外化すると、内部の感覚の比率が変わり、人間の認識や思考様式が変わり、コミュニケーションをはじめ社会のあり方に根本的な影響を与えるようになる。これが「人間拡張の原理」です。
活字の登場が、文字使用による視覚中心の知覚の偏りを進め、聴覚や触覚などの五感による感覚統合を後退させました。そして、マクルーハンは、その後に登場した電子的なメディアが、活字の視覚優位を逆転させ、聴覚や触覚を含むすべての感覚を有機的に統合するような文字文化以前の知覚を回復させるようになるといいます。
活版印刷は、個人主義や中央集権を生みましたが、電子的なメディアは、グローバル・ビレッジという国境を越えた新しい共同性を生み出す、という楽観的な歴史的な展望につながっていきます。
また、マクルーハンは、西欧世界の文字文化的な発展を、機械化し、細分化する科学技術を用いた「外爆発」と呼んでいます。三千年間にわたって続けられてきた外爆発を終えた今、電子文化の勃興によって神経組織の地球的規模の拡張である「内爆発」が始まっているといいます。どちらも「人間の拡張」でありながら、それぞれ反対の方向に身体の拡張が進むということです。
メディア中立的なインターネット
多くのメディア研究は、マクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼを受け入れ、メディア形式の重要性を支持し、「人間の拡張の原理」や「内爆発」をメディア論の基礎に置きました。旧メディアにおけるメディア形式の重要性に疑問を挟むつもりはありません。
しかし、この原理を、インターネットにそのまま適用することは困難です。というのも、インターネットは、テレビや電話などの電子メディアのみならず、「人間の拡張」を促した革新的メディアである文字も、活版印刷も、すべて呑み込んで伝送形式を無効にするからです。
従前のメディアは、テレビが電波と番組を、新聞が新聞紙と記事を一体とするように、メディア層(インフラ)とメッセージ層(コンテンツ)を垂直統合して一つのサービスを形成してきました。しかし、インターネットは、垂直統合していたメディア層とメッセージ層を水平分離させます。
インターネットでは下位層のメディア層と上位層のメッセージ層は独立した存在であり、文字も映像もデジタルデータであれば、メディア層は分け隔てなくすべてのメッセージを“メディア中立的に”伝送します。
インターネットの空間という形式
マクルーハンが『メディア論』で、具体的に検討対象に取りあげた電子メディアは「電信」「電話」「ラジオ」「映画」「テレビ」ですが、どれも垂直統合型のメディア(映画を除く)です。これらはどれも、固有の社会サービスとして広く認知されています。
マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』や『メディア論』を書いた1960年代は、テレビや電話が家庭に急速に普及し、これらのメディアが日常生活のみならず、社会全般を劇的に変えたと人々が強く実感した時期です。
ところが、この時点からたった30年で、これら個別メディアをすべて丸呑みするメタ・メディアが登場するとは夢にも思わなかったでしょう。Everything over IPといわれるように、インターネットは唯一メディアとして、これら個別メディアを解体し、階層別に再編・統合してしまいました。
垂直型メディアでは、伝送内容以上に伝送形式が重視されましたが、インターネットは、メディア形式の没個性化を限りなく進行させます。
こうして、個性的な伝達形式を持つ垂直型メディア群に代わって、統合されたインターネットの共通プロトコル上でアプリケーションが次々と生まれています。メディアの林立と違い、アプリケーションの林立は、専用端末機器を揃える必要もなく、携帯やPCといった共通インターフェースで操作可能です。
インターネットは、すべてのメディア形式を呑み込んで統合するものです。つまり「形式は何でもあり」なので、もはやメディア形式を問う意味を見いだせません。
しかし、インターネットは無色透明なのかというと、決してそうではありません。文字や活版印刷などの既存のメディアが持ち得なかった次元の異なる形式があります。それが「空間(性)」という形式です。文字(言語)にもある種の空間性が見られるというのであれば、場所(性)と言い換えてもよいでしょう。
既存のメディアは利用者にとって道具であり、活動場所にはなりえませんでしたが、インターネットは利用者にとって、道具(手段)を超えた居場所とでもいうべきもので、すべての人間の活動空間になっています。
スコット・ラッシュは、「情報空間」を道具的空間や機能的空間ではなく、活動空間という意味で「出来事の空間」、さらには「現代における生きられた空間」であると述べています。
インターネットは、もはや伝達手段の延長線上にあるメディアという言い方は適当ではありません。それならば、マクルーハンの「すべてのメディアは人間の感覚の拡張である」という言い方も適当ではありません。インターネットは主体の身体を拡張させるというよりも、主体を支える新しい空間となり、主体はそこで独特の身体感覚を持ちながら活動するようになります。
書きおえて
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
(丸田一如)
〈参考〉
マクルーハン(栗原裕・河本伸聖訳)『メディア論』みすず書房、1987年
マクルーハン(森常治訳)『グーテンベルクの銀河系 活字人間の形成』みすす書房、1986年
マクルーハン(後藤和彦・高儀進訳)『人間拡張の原理』竹内書店、1964年、
マクルーハン(森常治訳)『グーテンベルクの銀河系』みすず書房、1986年