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アバターで人はどこまで自由になる?(2/2)
1回 アバターによる「人決め」と「名づけ」
自己命名の禁忌(タブー)
個人が複数の名前を操る
2回 「プレーヤー」と「キャラクター」
本名で育ち、名前を増やしていく
名前の遷移が個人を作る
アバターとは、デジタル空間で自分に行う「人決め」や「名づけ」で作られた自分の化身です。
しかし、デジタル空間が登場する前まで、自分が自分の名前をつけてはいけない「自己命名の禁止」という社会的忌避(タブー)がありました。命名には権力性や暴力性もみられましたが、デジタル空間にはそれがありません。
そのためデジタル空間では、本名に染みついた様々な束縛から解放されて自由に活動できるようになりました。このことが拓く可能性は計り知れないものがあります。
「プレーヤー」と「キャラクター」
前回は、「個人」と「名前」の社会的な関係をみてきましたが、これはゲームにおける「プレーヤー」と「キャラクター」の関係に例えられます。個人は「プレーヤー」、名前とは「キャラクター」です。
ゲームごとにキャラクター(名前)は違います。また、ゲームによっては一人のプレーヤー(個人)が複数のキャラクター(名前)を操ることもあります。また、アバターはキャラクター(名前)ですし、ハンドルネームもキャラクター(名前)といえます。
ここでの「プレーヤー」は、自分の分身である複数のキャラクターを操る人という以上に、「参与的観察者」といわれる性格を持ち合わせています。
参与的観察者とは、自分でも他人でもなく、より広い枠組みから注意深く自分を観察し、自分を記述し直す「もう一人の自分」のことです。
これまでも、参与的観察者の視点を取り込んだ二重視点は、「プレイング・マネージャー」などといって、実務と管理業務を同時に担う企業人材などにみられました。
今では、多くの人々があたり前のように二重視点を持つようになっています。SNSで発言するキャラクター、ゲームをプレーするキャラクター、本名を生きるキャラクターといった自分の化身たちを、「もう一人の自分」であるプレーヤーがマネージメントするといった新しい自己の全体像です。
本名で育ち、名前を増やしていく
「名前」=「個人」として、名前が個人に張り付いていた昔と違い、今は「名前」>「個人」として、個人(プレーヤー)は複数の名前(キャラクター)」を操るようになりました。
ただし、この「名前」>「個人」は、デジタル空間だけにみられる状況ではありません。私たちは、デジタル空間を離れても複数の「名前」を備え、それらをコントロールしています。
備わっている「名前」は、皆それぞれ異なっています。
しかし、最初に「名前」を獲得する経験だけは、誰もが共通しています。
生まれて間もなく命名の儀式があり、私にも、私が知らない間に「一(はじめ)」という名前(本名)が付けられました。
そして、名前が戸籍に掲載され法的にも主体となりますが、その時点で自他の区別がなく、親の助けがなければ生きられない只の赤子です。
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曲がりなりにも自己が確立し、一種のキャラクターといえるものを身につくのは幼少期です。そこでようやく与えられた「名前(本名)」と「個人」が強く連動し、自己が備わるようになります。
それは、初めて自己が身につけた他者や世界との係わり方であり、同じく生きる様式であり、自己の祖型として基調的に働きます。
その後、成長していくと、経験に基づいてその人なりの自己が形成されていきます。幼少期に備わった自己のまま成長するケースもあり、多くは思春期を経てマイナーチェンジしながら段階的に自己を整合性あるものに作り上げていきます。こうして私たちのほとんどは、モラトリアム期に「名前」=「個人」となり自己を形成します。
例えば、カミングアウトするか否かは別にして、性的マイノリティとして生きる人は、モラトリアム期に獲得した最初の「名前」と「個人」が一致せず、「名前」が自らを悩ませ続けます。そこで、最初の「名前(性)」に替えて、心身が一致した性のもとに新しい「名前(別性)」を獲得し、「名前」と「個人」を一致させようとします。
ただし、そこで以前の「名前」をすべて捨て去ることに成功したとしても、最初の「名前」は転身の動機として、また転身の原動力として働き、さらに転身後も新たな「名前」の反面的な選択根拠としてずっと働き続けます。
こうして「個人」は「名前」の変遷を引き受けていきます。
その後も、社会的に立場や顔が増えるごとに「名前」が増えていきます。
その中には、ハンドルネームの自己命名によって獲得したSNS上のキャラクターのように短命に終わるケースや、芸能人のように芸名をもち、成長の節目に芸名を変えていくケースもあります。そして、高齢になって活動が縮小するに従い、「名前」の数も減っていきます。
一生における「わたし」の系譜を表すと、図のようになります。
「名前」が増えるに従って重心が移動するように、「個人」をズラしていく行為といえます。
名前の遷移が個人を作る
そうはいっても、名前を複数持てる人は、芸能人をはじめ少数の人々でした。
しかし今、私たちは、デジタル空間上で容易に複数の名前(キャラクター)を持つことができるようになりました。
ただし、芸能人と同じように「名前」を使い分け、その時々の状況に応じて「名前」を巧く操る必要が生じてきました。これは現代人に課せられた新たな課題といえます。
その答えは、一朝一夕には見いだせませんが、どうやら「名前」を都合良くコントロールしたり、管理するといったニュアンスではないように思えます。
むしろ、ゲームのプレーヤーが流れによってキャラクターを替えるように、あるいは、自動車のハンドルを握った途端に荒々しい人格に変わるように、あるいは、住民がスーパーに足を踏み入れるといつの間にか賢い消費者になっているように、さらに、閾値を超えれば自然と次の「名前」に変わっていくように、情況的に「名前」は移行していくもののようです。
「コントロール」というより「遷移」といった方が当てはまりがよいですね。複数の「名前」が情況によって自ずと遷移していく姿こそ、現代人の自己のあり方ではないかと思います。
少し言い足りないところがあるので、次回2+1として、もう少し「アバター」や「名前」について考えてみたいと思います。
(丸田一如)
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