「言葉は感覚のグルーピングだと思う」
一人が持つ概念は、その人の辿ってきた道にどうしても依存してしまう。
ジャズと呼ばれる曲を聴いて、また別のジャズの曲を聴いて、さらに他の曲も聴いていって、それぞれに感情が動いたとする。
一曲聴いて受け取った夥しい数の感覚は、忘却曲線に乗ってぼやけていくんだろうけど、他の曲でも同様に感じた感覚は、その分よく記憶に残る。何回も繰り返し触れるものは忘却の波に耐える。その感覚たちはジャズっていう言葉と一緒に仕舞われる。
ある曲を街で聴いたときに、それと同じ感覚をまた味わったとする。
これはジャズのジャンルなのではないかと推測するようになる。ああ、やっぱりジャズだったと分かると、さらに他の共通感覚にも気づけるかもしれない。
もしジャズでなかったのなら、もっと特徴的な感覚があるんだろうと気づく。(「気づく」っていうのは、無意識的なものもイメージしている。)
そうやって現在進行形で概念は成熟していくものだと思う。
時間が水流なら、砂が流されて「抽象」されていく。残ったものは、根元に近いところで意味をもっている。大事なものは繰り返し覚えようって習うけど、大事なものは繰り返し出会うものだと思う。
言語の獲得自体にも同じことを想像する。
親は赤ちゃんに何かしてあげるときに、何度も言葉を赤ちゃんに向けて発しながらその何かをしてあげると思う。すると、だんだん状況と親の声がセットになって覚えてくる。
音の響きにも、感受性は子どもの頃から敏感に反応してきた。
耳を使わない場合も身振り手振りや表情で教えられる。
そういうことの積み重ねで今見えている世界が今見えているように在るんじゃないかな。
言葉は感覚のグルーピングだって言えると思う。
「感覚」とか「感情」とかを使ってるけど、自分の概念で読んでみてほしい。自分だけの「概念」は、勘違いを含めて、今までの人生で経験してきた全ての記憶からできている。感受性もそう。──風景や絵画や音楽、服、植物、言葉、料理、、──何かに触れて笑みがこぼれたり、眉根を寄せたりするってことは、言葉が出てこなくても、何か感情が動いた証拠であって、涙や表情に表れなくても、微細な気持ちの揺らぎを感じるときもある。それを感じなくても、何かしら、生きている以上、夢の中でも、心を殺しててもなおさら、感情は動いていると思う。
自分にしかない鏡に、動く感情を見る。
あるいは、自分のカーテンを通して作品を見る。
鑑賞の鑑はかがみって読む話。
一つの言葉から色んなイメージが膨らんでいくなら素敵なことだと思う。
取り合わせてさらに新しいイメージが広がるのも良い。
鳥居、鳳仙花、バス停