見出し画像

禅と競技かるた、雑観

その空白の一瞬に
自分の無意識を見た気がした

高校で「競技かるた」を始めて1年くらい経ったころ、ある日の放課後の試合で感じた“楽しさ”が今でも忘れられない。

試合も終盤に差し掛かり、決まり字が「o音」となった「小倉山」の札が敵陣の左上段に並ぶ。「お」の文字が詠まれる刹那、気づいたときにはもう右手は札を払っていた。自分ではないような速さで、自然で綺麗なストロークで。純粋な喜びと爽快感が全身を駆け巡る。

家に帰ってから思い出すと、なんだか身体が勝手に動いたような感覚だった。その時はだいぶ疲れきっていて、その札を特に意識できていた訳でもないのに、脊髄反射のような感じで、自然に身体が札を払っていたように思う。聴こえた音を文字として認識もせず、ただ言葉になる前の音そのものとして捉えていたような気もする。
自分にとって、何か神聖ささえ感じてしまう体験であった。詠まれる前の空白の一瞬に自分の「無意識」を見た気がした。この楽しさがあるから、かるたはハマったらやめられない。

数年前、友人にこんな意味不明なことを呟いたのを思い出す。「かるたも茶道みたいに芸術の域まで高められる気がするんよな」
ただ調子に乗って粋がってるようにしか聞こえない笑。自分でも当時何を言っているのかよく分かっていなかった。けれど最近、言いたかったことが少し明確になってきたので、ここに書いてみたいと思う。その友達へ宛てて

競技かるたの集中の仕方は瞑想に近いと思う。
そして、かるたを究める先は、剣道や武術に共通する禅的な無我の境地なのではないか。

競技かるたのこと 〜前置き〜

小倉百人一首を使った「畳の上の格闘技」である。一対一で畳に向かい合い、場には下の句が書かれた50枚の「取り札」が並ぶ。上の句を詠み上げる「読手」の声に耳を澄ませ、相手より先に詠まれた句の取り札に触れた方がその札の「取り」となる。相手の陣地の札を取れば自分の陣地から取り札を一枚送れる。そうして場の取り札は50枚から徐々に減っていき、最終的に自分の陣地の取り札がゼロになった方が勝ちとなる。
特に面白いのは、詠まれた和歌を特定するのに、たった数文字聴くだけでいいというところ。和歌は百首しかないため、初めの1文字を聴いただけでその次に続く和歌の数はかなり限られる。2文字目を聴けば、さらに限られる。3文字目を、、、。「その札が確定する文字数」を「決まり字」という。例えば、「ほ」と詠まれただけで、ただ一首「ほととぎす 鳴きつる方を眺むれば ただ有明の月ぞ残れる」の札が確定し、お手付き無しに下の句の札を取れる。この歌の決まり字は「ほ」である。もっとも長いものでもたった6文字である。これによって競技かるたのスピード感、静と動、緩急の妙が生まれる。さらに先のレベルへ進むと、子音のひとつや次に続く文字による音の繋がり方、息遣いまで聴き取れる熟達者も出てくる。さらに、札は1試合に1度しか詠まれないので、試合が進むとまだ詠まれていない札が減ってくる。だから「決まり字」もどんどん短くなってくる (例えば「お」で始まる全部で7枚の札の内6枚が出てしまえば、残りの1枚が「o音」だけで取れるようになったりする)。ほんの一瞬の反応の差異が「取り」に関わってくる。
札が読まれる直前の1秒間は、音に耳を澄ませるために場が静寂に包まれる。その一瞬あと、言葉通り読手から伝わる空気の震えひとつで、一斉に札が払われる。その光景が圧巻である。

より早く取るには?

競技かるたにおいて大切なのは、より早く札に触ることである。そのための練習には大きく分けて3つのアプローチがあると思う。

①札の最初の文字が詠まれ始める→②音が空気を伝わり耳に届く→③その文字だと認識する→④記憶している取り札の位置と照合して狙いを定める→⑤その札へ手を動かして払う

という流れがあるとしたら、②の時間は変わらないので、③④⑤にかかる時間をそれぞれ短くするほど早く札を取れることになる。⑤を早くするには払いを速くすればよいし、④を早めるには、札覚えを鍛えればよさそう。③を早めるには音が聴こえて(鼓膜が震えて)からその文字だと分かるまでの時間が短くなるよう聴き分ける耳を鍛錬するとよい。

とは書いたものの、「音を聴いてからその文字を頭ではっきり認識して、札がそこにあると判断してから手を動かす」というのは、ちょっと冗長な気もする。音という感覚情報を言葉に変換せずとも、札を暗記する段階で、聴こえる「音の感じ」とその札への払いの動作イメージを紐づけて、身体に記憶させてしまえれば、文字を意識してから動くよりもっともっと早く札を取れる。

つまり、無意識的な反応が出来ればかるたは強い。

決まり字が短い札なんかは、おそらく言葉以前の感覚的な世界で取ることが多いと思う。競技かるたをしていると「思考は反応を遅らせる」という体験知が得られる。早押しクイズでボタンを押そうと思ってからボタンを押していては遅れてしまうように「判断」や「意識」は動作の前に一瞬の遅れを要する。

しかし、何度も繰り返し無心に戻って音を聴くのはそう簡単なことではないと思う。

直前に確認した札に意識を取られすぎたり、忘れている札はないかと不安が頭を過ったり、対戦相手の存在を過剰に意識してしまったり、さっき札を取られた悔しさが頭を離れなかったり、「心ここにあらず」の状態だと、反応に余計に時間がかかったり、反応できなかったりする。音が聴こえているはずなのに手が動かないみたいなことが起こってしまう。それらを振り切って集中する必要がある。

暗記では言語や思考が必要である一方、いちばん集中を要する、詠み上げ直前の1秒間では、それまでの暗記や移動した札のことなどは意識から手放して、執着のない「無心」で静寂を破ってくる音の輪郭に集中することになる。これを1時間以上の間、断続的に続けるのである。しかも大会では1日に6試合以上あることも。

こういう書き方をしてみると、かるたの試合にはどこか精神修行味がある。

空白の1秒と瞑想

聴こえてきた音をそのままに捉えて、言葉を介さずに最速で反応して払う。取り終えた札にはもう心はなく、今、目の前に集中する。心境は終始穏やかで、今に集中しているから、結果や勝ち負けを思いやることもない。

この集中には、瞑想と似たところがあると思う。注意が逸れている“Mind Wandering”の状態に気づいて、判断をせずに手放し、焦点を今感じている感覚に戻してくる。かるたの沈黙の1秒間はまるで瞑想のよう。集中できて「ゾーン」に入った試合に限ってあまり覚えていなかったりする。

剣道や武術を究めていくと、「無我の境地」に至るという。これは禅的な「内面から世界を直覚する」ことや、自然に身を任せること、言葉の二元性を超えて全体として捉えること、にどうやら関係している。(「禅と日本文化 / 鈴木大拙」という本を読んだのですが、理解しきれなくて合ってるかまだ自信ないです。) ドラゴンボールの悟空が最終的に至ったのが「身勝手の極意」だというのも面白い。
そして、教義ではなく実践によって内側から世界を直覚するという禅的なアプローチとその境地には、かるたにも相通じるものがあるように思う。競技かるたを究めた人と、剣術の達人にはどこか共通する精神性があると思う。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

追伸
芸術的な創作が生まれるのも、無意識やその奥に身を委ねるときだというのも面白い。音楽を作ってみたりしていると、作りたい曲のイメージが思い浮かぶときの感じが、最初に書いた「おぐ」を払う感じに近い気がする。何も考えていない状態。でも何か「昔から変わらない生き生きとした感覚」が湧いてくるような
ギターやピアノを夢中に弾くのは、
座禅を組んで瞑想するのと似てるのかも


読んでくださった方、ありがとうございました!
禅については浅すぎる認識なので、間違ったことを書いていたらすみません。もう少し見え方がはっきりしたり、勘違いに気づいたら、また改めてみようと思います。

かるたの札の音と色の共感覚の不思議も、このあたりの話に関係しているような気がしてなりません。色々ある視点の1つとして少しでも面白いと思ってもらえていたら幸いです。

いいなと思ったら応援しよう!