薬虎、鶺鴒の鳴声を流し始める事。
セキレイの鳴き声など聞いたことがない。
いや、もしかしたら聞いたことくらいはあるのだろうか。ひょっとすれば、聞きなれている方なのかもしれない。「あれはセキレイの鳴き声だな」と解する知識と情緒を持ち合わせていない自分が、鳥たちの鳴き声を一緒くたにしているのだろう。
実をいうと神社界にとって鶺鴒(せきれい)は、鶏、烏と並ぶ神鳥である。典拠からいえば、聖鳥と申し上げるべきか。
神道文献では、夫婦のあり方を神代のすめがみに教えたもうた佳い鳥だと言い伝えている。
九月十二日。暦の目安として今節気の次候・鶺鴒鳴がはじまった。セキレイが鳴き始める頃という意味である。
図鑑で調べてみると、セキレイは1年中、日本にいるので鳴き声が秋にだけ聞えるということではないらしい。なんだ、別に貴重じゃないのか。ふん。ちなまこ探して損をしたじゃないか。
本格的に大阪へ居を移して2か月程が経った。久しぶりの都会暮らしに身体が疲れているのだろう。自分史上、最悪のお肌コンディションである。
先日、ある壮年夫婦が営んでいる床屋さんで顔を剃ってもらった折、掃除機をかけている最中の店主に言われた。
「あんな綺麗な渓谷郷から来ては、大阪の水は合わんのとちゃうか。」
田舎者が難波宮のまします洛府に来るなど図が高い。とっととお帰りになったらどうか、と遠回しに言われたかと思った。
がだしかし、ここは可愛気を出して「肌の調子は良くないから、体正直では合っていないのかも。でも、大阪は楽しい。古跡も周辺にはたくさんあるし、アルバイトもはじめた。気持ち良くてやめられねえよ。ヘヘヘ」的なことを返しておいたが、どうやらまだまだ自分の面白ポイントは大阪と焦点が合っていないようだ。店内は静かだった。都会というのは厳しい。
バイト先と自分の巣がある北浜エリアは、洛中や札幌を思わせる擬似的条坊都市である。
淀屋橋を起点として、時計回りに北浜、天満橋、谷町四丁目、堺筋本町、本町から上って再度、淀屋橋。
概ね四角形で囲めるこの土地を、勝手に【北浜大結界】と呼んでいる。
自分の行動範囲は、この結界内の徒歩で移動できる距離を原則出ない。
大結界の中は先ほど言ったように碁盤の目が走っており、この都市では一方通行の道路交通管制により、逆走が無い限り大きい道路を走る車は、基本的に同じ方向へのみ流れてゆく。概念の人工河川みたいだ。
先日、この水無き一級河川が流れる北浜大結界を、お上りさんよろしくキョロキョロしながら歩いてみた。神社の行事に合わせて雑節を調べ、セキレイが鳴き始める時期だと覚えたばかりだった故である。
はたして、どうだろうか。大結界の中でセキレイの声どころか姿が見えない。
母の家近辺では、トコトコトコトコと歩いていたハクセキレイだけでなく、祓に使う大川まで行けばセグロセキレイの姿も見ることができた。声色など知らなくても、あそこまで面倒くさそうに飛ぶ姿を知らない鄙住まいはそうそういない。見た目は分っている。
いたずらに人間を怖がらない鳥なので、姿があれば「声ぐらい、聞かせてみろ、このセキレイ」とイチャモンをつけてやろうと思っていたのに。この程度のジャイアニズムを大阪の大気中から察するとは、随分なご挨拶だ。
むしろ、こっちがお前たちの声を出してやる。
スマホの文明力を蒙りて、姿の見えぬまま啼き続ける同族の声に震えて眠るがいい、と思いながら手元を動かす。
なんだか聞き覚えのある鳴き方だな、この鳴き声お前たちだったのか。
田舎だとあんなに煩いくせに、えらく控え目じゃないか。音量最大。
帰り道にある製薬会社や薬局の前を、そこそこの音量でセキレイの声をスマホから垂れ流し歩く虎の爆誕である。こっちがセキレイな気分がしてきた、なんとも不愉快。これがお前たちのやり方か。
旧暦通りなら、まだ8月。そもそも、こんな暑いのに鳥の声を街中で聞こうとするのが愚かなのだ。少し前に秋が立ったとは思えない暑さであるし、蜩の残響は遠い記憶のままである。涼しい風、残暑など挨拶も寄こさない。北浜のセキレイ以下である。
悪態をつきながら歩いていると、ヒョワワ~と涼風が前髪の生え際を通り過ぎて行きていったので、気分はウフり機嫌の悪さも寿命を切らした。立ち止まってみれば、住友ファーマさんの正面玄関が開き冷房が流れてきていた風だった。「ああ、素敵。涼風至ってあなたの事だったんですね、住友ファーマさん。いつもお世話になっております。」
流石は住友グループ。緑の井桁が輝かしいですな。我が国を支える大企業は、青人草の区別なく礼儀を尽くすべきだと心得ていらっしゃるのだろう。うだるような暑さの中、うだつも額も上がらず、頓首頓首と生きている自分にも、つかの間の清涼を分けてくれる。ああ、そんなに早く自動ドアをお閉めにならなくてもいいのよ。
夏の湿り気が過ぎ去り、乾いた風と空気が澄むせいで、風は涼しいのに色を明け始めた木の葉を前にすると、二羽仲睦まじく、麗しい白や黄色の腹羽を持つセキレイの姿は目につきやすいのだろう。
人ですら恋の和歌を詠む季節に、夫婦鳥の声を気にする様子を暦に盛り込みたいと考えたのだ。ありふれた関係の在り方に目を向けさせようとするほどの、当時ですら偉大であった中国の暦を書き換えたいと思うほどの、当たり前のさえずりを通して人々を善導せんとする鳴き声とは、かつての人は何を聴いたのだろう。
水無き車の大河の畔を、電子鳥の囀りだけが過ぎ去ってゆく。
きわめて観念的な大自然の中でビジネスサバイバルをしている人々をみると、時間に取り残された神社の中で留守番をしている世間知らずの自分が、えらく寂しい姿で脳裏に浮かぶ。
御国をお生み遊ばし、大神の方々をお産み遊ばした神々ですら、二人の在り方を知らなかった頃。かの御二柱は地面を首元で突きながら歩く鳥に、自然なやり過ごし方を教わった。空を長く翔けず、地を走るこの鳥は、世界を在り方を事程左様に知っている。
熱ばかりを吐き出し、ため込んで、さて暑い暑いと文句を言う人間を横尾羽に、鶺鴒たちは北浜大結界を見限ったのだろうか。
鶺鴒の姿が無いあり方をみて、教えられたあり方をなおも実践できないでいる虎の身を神饌所に横たえた。
鶺鴒鳴(セキレイ-なく)
二十四節気第15節の白露の内、七十二候第44候(白露次候)。
セキレイが鳴き始めるころ。
一年中日本にいる鳥なので、べつに啼いているのはこの時期だけではない。
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画像は某通信会社のキャラクター・ポインコ。
セキレイではないし、鳴かない。人語を話す。