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螺旋階段の上と下で

「その犬と豚のどこがどう違うんだ?」

高校1年の秋だったと思う。その日は、朝から冷たい雨が降っていた。シャッターの降りた八百屋の軒下、ダンボールの中で子犬が震えていた。箱にはタオルが敷き詰められていたが、糞尿のせいですっかり汚れていた。子犬は鳴き声を上げることもなく、壊れたモーターのように小刻みに震えている。底が抜けないよう慎重にダンボールを拾い上げ、そのままアパートに連れて帰った。湿ったダンボールは「腰」がなく、思った以上にずしりと重かった。出来の悪い青春ドラマのワンシーンのようだが、実話である。

ぼくは、家の事情で高校に入るとすぐに六畳一間のアパートを借り、一人暮らしをはじめた。生活費は、半分を親に出してもらい、残りの半分はアルバイトでしのいだ。ご多分にもれず、アパートは不良のたまり場になったが、それはそれで楽しかった。

電気ストーブのスイッチを入れ、乾いたタオルで子犬の体を拭く。しばらくすると震えは収まったが、怯えているのか弱っているのか、鳴き声ひとつ上げない。温めた牛乳を近づけると、少し飲んだ。ミルクを舐める音と雨音が溶け合い、部屋の中にも雨が降っているようだった。

暗く湿ったアパートに子犬と16歳。世界には、ふたつの生き物しかいないような気がした。と、同時に、犬はまるで自分の分身のようだった。アパート1階のピンク電話から、先輩Tに電話をかけた。バイト先のマクドナルドで知り合った早大の三年生だ。ぼくは彼を兄のように慕っていた。Tが相手をしてくれると、自分がいっぱしの大人になったような気がして嬉しかった。「いるから来いよ」。受話器を置くと部屋に戻り、子犬の様子を確認するとTの住むマンションに向かった。犬は腹がふくれたせいか、タオルに包まってかすかな寝息を立てていた。マンションまでは、自転車で3分とかからない。雨はすでにやんでいたが、空は鉛色のままだった。

「で、その犬、どうするんだ?」
「わかんない。震えていたし、雨が降っていたし……」
「お前のとこじゃ飼えないよな。ここでも無理だ」
「でも、かわいそうじゃん」

Tは、乱暴にタバコをもみ消すと、湯を沸かしにキッチンに立った。湿った空気が薄く開いた「サッシ」から流れ込み、沈黙が部屋に沈殿してゆく。

「おまえさあ……。トンカツ好きだよな? その犬とトンカツはどこがどう違うんだ? もともと同じ生き物じゃん。殺されて食われる豚はどうでもよくて、その犬だけ特別なのか? 飼えもしないくせに拾ってきて、かわいそうはないだろ? いいこと教えてやるよ。お前のそういうとこ、世間じゃ偽善って言うんだ」

反論できなかった。「うん……わかった」。そのままアパートに帰り、子犬をもといた八百屋の軒下に戻す。道すがら子犬は見ないようにした。両腕に伝わるダンボールの重いような軽いような奇妙な感覚は、いまもはっきりと覚えている。

この話には、なにもない。示唆も教訓もオチもない。食物連鎖によって種をながらえることは自然の理(ことわり)で、それを議論したところでなにも生まれない。生きているものを殺め食わなければ、自分が死ぬだけだ。簡単な話である。

けれども、ぼくは、これをきっかけに変わった。わかりきっていること、考えたところで埒のあかないこと、意味があるとは思えないことを、思い考える。気がつくとそれが習い性のようになっていた。私とはなんであるのか。なぜ、死ななければならないのか。生きることに意味はあるのか。なぜ、なにかが「ある」のか。なぜ「ない」ではないのか。

終わりのない螺旋階段を、昇ったり降りたりしているようなものだ。眺める景色が多少変わったとしても、自分はそこから一歩も動いていない。そんなことを考える暇があるのなら、ほったらかしにしている企画書を一行でも埋めるべきだと思う。

人生の「密度」とはなんだ。

幸せな家庭を築くこと。子どもの成長を見守ること。富と権力と名声を手に入れること。芸術にのめり込むこと。ここにも正解はない。そのどれもが、「その人にとっての密度」なのだと思う。それが、たまたまぼくの場合は、終わりのない螺旋階段を昇り降りすることなのだ。堂々巡りで、自分を前に推し進めることができなかったとしても、そこから見える景色を、ぼくは気に入っているのだと思う。

( Installation:LEE Kit )

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