読書感想文に抗う吉田君。 (短編小説)
読書感想文という悪しき慣習について
4年2組 吉田吉男
私は読書感想文が大嫌いである。
この一言に尽きる。どう足掻いたところで大嫌いである。
何故、読書感想文などというはた迷惑な宿題が、夏休みという名の楽園に降り注ぐのであろうか。実に愚かである。
毎夏のごとく、私はこの読書感想文という名の悪しき慣習に苦しめられ、髪をかきむしり泣き喚くという醜態を晒すことになる。
醜態を晒す私自身も、その醜態を視界に入れなければならない家族の皆様も、皆がひどく不快な感情に苛まれることになる。
そんなのは誰も望んでいない。半強制的に小学生の男が泣き喚く姿を見なければならない家族が、あまりにも可哀想である。理不尽である。
ここで一つ大切な報告がある。今回、私は読書感想文を書くに当たって、本を何も読んでいない。そして、今後読む気もない。
つまり、私は本を読まずにこうして読書感想文を書いているのである。
本を読んでいないのに読書感想文を書くという行為は、おそらく未だ誰も成し遂げたことがない行為であろう。
つまり今の私は、前人未踏の境地に仁王立ちしているということである。誇らしい。
これをお読みになっている諸先生方は、「こんなのは読書感想文とは呼べない!!」とエクスクラメーションマークを二つも付けて断罪するに違いない。
だが、そんなのは私の知ったことではない。悪しき慣習にはそれ相応の対処をしてしかるべきなのである。
だいたい読書感想文というのは、あまりにも難しすぎるのである。本を読んだところで大した感想など出てきやしない。
なぜ「面白かった」の一言ではダメなのか。「面白かった」しか思いつかないのだから仕方がない。理由なんてありゃしない。
人間というのは何でもかんでも理由をつけたがる生き物であるが、この世界は必ずしも理由があるとは限らないのだ。
きっと諸先生方は、「理由を考えることで思考力が身に付く」とか「難しいからこそ成長することができる」とか、そういったことを言うに違いない。
ただ、誤解してはならない。成長というのは、その個人にあった適切な難易度のもとで成し遂げられるものなのである。
今の私にとって、読書感想文は決して適切な難易度とは言えない。あまりにも難しすぎて手に負えないものである。
つまり、そんな不適切な難易度の作業に取り組んだとしても、私が成長などするはずがないのだ。見当違いも甚だしい。
それだったら、むしろこうして本を読まずに読書感想文を書いていた方が、圧倒的に有意義な時間なのではないだろうか。
現に今の私は、己の思考力が加速に加速を重ねて研ぎ澄まされていることを、身をもって実感している。今まで書いてきた、嘘まみれで紛い物の読書感想文とは正反対だ。
これこそが本物の成長なのである。
さて、これが正式に読書感想文として受理されるのかは皆目見当もつかない。五分五分といったところであろう。
だが生憎、私はもう既にとてつもない達成感に満ち溢れている。そのため、もしも正式な読書感想文として受理されなかった場合には、私は潔く諦めるつもりである。決意は定まっている。
これから先どんな運命になろうとも、決して抗うつもりはない。つまり、読書感想文を書くつもりはない。
人事を尽くして天命を待つ。
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