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自分の怒りのポイントがどこにあるかわかった話。

僕はあまり怒らない性格だ。
それは世代や属性、考え方が違えど価値観の合う人やコミニュティを選んで付き合っているし、そもそも人の考え方がそれぞれ違う点に魅力を感じているからだと思う。

とはいえ仏のような人間ではないので極端にマナーが悪い方を見かけた時などは少しイラッとしてしまうことはある。ただし燃え上がるような怒りを覚えたことはここ数年記憶にない。

先日、地元で行われたとある会合に参加した。やや閉鎖的なコミニュティだったので乗り気ではなかったのだが、数年前オンラインの講演を聞いて感銘を受けたまちづくりの第一人者の方も登壇するということで、その方目当てで参加した。

会場に到着すると一瞬で「あ、帰りたい・・・。」と野生の勘が働き、胃がキリキリしたのだが、やはり目的の方の話はとても良かった(残念なことに大トリだったので最後まで居ざるを得なかったのだが)。イベントというのはどういった点に注意すれば新規の参加者にとって居心地良い空間になるかを書き出す作業でなんとか時間を潰した。

途中、参加者同士のコミュニケーションタイムが取られた。嫌だなぁと思いつつも座り続けているのも居心地が悪いので名刺交換の輪に参加したのだが、基本的に「この方いいな。」と感じた方以外には名刺を渡さなかった。僕は、自分が付き合う人の選択を大切にしたい、自分の名刺を大切にしたいと思っているんだなと強く感じた。

気の合う方とお話ししている最中、40代半ばくらいの女性が割り込んできてグイグイ自分の話をし始めた。その瞬間、カッと身体が熱くなる感覚を覚えた。直後、信じられなかったのだが「なんで割り込むんでしょうか。」と強めの語気で口に出した自分がいた。

これには自分で驚いた。こんな感覚はしばらく味わっていなかったからだ。

人脈というものはとても大切だと思うし、人を豊かにするものだと思う。それでも、一方的に名刺を押し付けベラベラ語るスタイルで得られる関係性にどんな価値があるのだろうか。そうやって受け取った名刺に人はポジティブな行動を起こすだろうか。対話は思いやりが交差するキャッチボールだから5:5から始まり、関係性に応じてそのバランスを調整してお互いの気持ちよい具合に落ち着いていく。コミュニケーションとはそういうものだと思っている。

その思いやりが欠けた瞬間に自分は怒りの感情を抱くのだと気付いた。

そういえば、いつしかカウンセリングを受けたときに心理士の先生から言われたことを思い出した。「『嫌だ』と感じることは必ずしもネガティブなことではない。ポジティブな感情より自分のことを知れるタイミングなんです。」とのことだった。そういった気付きを重ねることで、現代人が自分では気付かないまま溜め込んでいるストレスのタネに気付けるというのだ。これは自分がどこまでお酒を飲むと意識が朦朧とするのか限界を知れるみたいな話だが、あらためて腑に落ちた。

怒りを覚えてこなかったというのは、実は少なからず自分の中でストレスのタネを押さえ込んでいたということと隣り合わせだったりする。

せっかくフリーランスになったのだから、自分のストレスのタネを把握して徹底的に避け、その分のエネルギーを頼ってくれる方や応援したい方に尽くすことに全て使いたいと思った。

自分の直感を信じて、飛び込むコミュニティはちゃんと選ぶ大切さを身に沁みて感じた。

(これは参加した会合が「質の低いもの」ということではなく、誰かにとっては居心地の良い場所なんだと思う。向いているかそうでないかの話であって、その多様性は無数に存在するべきだと考えている。)

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