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第10話「別れの儀式」
アキは都会に勤めるアラサー。
今日はお休みだが喪服を買いに来た。近くはないが親戚の人が亡くなったため、葬儀に出ることになったからだ。
こんなに嬉しくない買い物はないだろう。
買い物をして帰宅した。
真っ黒い服を見たせいか、気分まで暗くなり何もする気にもならない。
こういったときは何か考え事をして気を紛らわせるしかない。
んー。葬儀について考えてみよう。
そもそも葬儀と言うのも不思議なものだ。
これだけITが発展していても葬儀は古典的かつ語弊があるが面倒だ。
何日もかけて行う場合もある。守るべき作法や決まり事もたくさんある。
それでも行う理由、亡くなった方が「葬儀はいらない」といっても行ってしまう理由があるはずだ。
私も両親から「葬儀はいらない」と言われているがきっとやってしまうだろう。
なぜだろう。
自分の場合は、葬儀は「別れの儀式」なのだ。物理的にも精神的にも葬儀を経て別れるのだ。
そうしなければ、別れられないほど人生というのは他人を巻き込んで営まれていくのだ。
亡くなられた方の伴侶や子供なのならば尚更、別れの儀式は必要になるだろう。
人は記憶を元に未来を予測しながら予定を立てて生きている。
その記憶の中に深く刻み込まれている人がいなくなる、そんなことは想像もしたくないほど辛いことだ。
自分は両親のことを思い感情を想像したが、そうではない人でもそれは楽しい記憶でも辛い記憶でも何かしら感情に変化が起こる。
それだけこの世からいなくなるということは衝撃が大きいのだ。
感受性が豊かな人なら、他人の死でも心を痛められ容易に想像することが可能だろう。
そうではない人も自分の肉親や最愛の人たちを実際に亡くなった時にわかるのだろうか。
まあ、その点は他人の心の話なのでその話は置いておくことにする。
つまり、葬儀を行うのは亡くなった方のためではなく生きている残された人たちが、
物理的にも精神的にも亡くなった方と別れるための儀式なのだろう。
亡くなった方からの卒業と言っても過言ではない。
葬儀とは残された人が行うものであり、残された人に残された亡くなった方との最後の思い出なのかもしれない。
考えれば考えるほど寂しくなってきた。
この後久しぶりに両親に連絡をとってみようか。喪服も買ったことだしその報告も兼ねて最近の調子でも聞いてみよう。
全てのものに終わりがあり無限に思える時の流れにも終わりが来る。
後悔のないように、感謝を忘れないように生きていこう。
マイナスな感情に流されていては勿体無いな。
アキはスマホを手に取りチャットを開いた。
「喪服買ったよ。」
アキの次の考え事はこの次に送る文章を考えになった。